あんつぁんの風の吹くまま

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<   2013年 07月 ( 25 )   > この月の画像一覧

くれぐれも御用学者の御言葉を信じないように願う者です

 『福島の勝利』と高らかに謳い上げる、東大病院放射線科の中川恵一准教授は、第一級の御用学者であり、原子力ムラの一員と断言して構いません。

 単なる診療放射線技師に過ぎないわたしですが、東大病院の医師ってこんなものかと、呆れてものが言えません。

 はっきり云います。もう、国立大学、国立病院は不要です。その存在は、フクイチから撒き散らされた放射性物質のように、極めて有害です。

    週刊新潮 八月一日参院選特大号より抜粋
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 福島第一原発の吉田元所長の死は、放射能傷害によるものです。もしそうでなかったら、今迄の放射線医学の常識を覆す、大問題です。

 喫煙履歴のある吉田元所長は、咽頭、食道、気管支、肺に、ニコチンタールが残存しており、そこへ、吸い込んだか、飲み込んだ放射性物質が付着して体内にとどまり続け、周りの組織が炎症を起こし、潰瘍を形成して、ガン化したと考えるのが、普通です。

 想像ですが、吉田元所長の遺体は解剖され、体内の何処に放射性物質が取り込まれていたか、全て明らかになっているはずです。ひょっとしたら、臓器または遺体全体が、標本として残されているのではないでしょうか。

 この御用学者さんが、その剖検に立ち会ったのならば、その発言を尊重しなければなりませんが、それすらも明確にいわないこと自体、この発言の胡散臭さが漂います。

 放射性物質による、体内被曝の典型的な症状を公然と否定することは、学者であれば許される事かも知れませんが、医師としてはあってはならない事です。



  過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ
by antsuan | 2013-07-30 12:32 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

独自の言葉は文明国の証し 国語を大切にしない国家は滅びる

 隣の韓国のことを見ていると、我が身を振り直さねばと、思うところが一杯あります。日本語に横文字言葉が溢れてきているのが心配です。

J-CASTニュース ニュース 社会

韓国出身評論家、「祖国」から入国拒否 「ハングル至上主義」批判記事が原因か
2013/7/28 17:02
韓国出身で日本に帰化した評論家の呉善花(オ・ソンファ)・拓殖大学国際学部教授(56)が、韓国への入国を拒否され、そのまま日本に引き返していたことが2013年7月28日明らかになった。同日の産経新聞やNHKが伝えた。
韓国側は入国拒否の理由を明らかにしていないが、呉氏は韓国に対して厳しい論陣を張っていることで知られ、13年7月に入ってからも、韓国のハングル優先政策が未だに韓国人が(金大中元大統領を除くと)ノーベル賞を受賞できていない原因のひとつだとする主張を展開し、韓国メディアから批判が噴出した矢先の出来事だった。
07年にも一時入国拒否されている
産経新聞によると、呉氏は7月27日11時過ぎに韓国・仁川空港に到着したが入国審査の際に別室に通され、約1時間半後に入国拒否を通告された。理由は明らかにされなかったという。夕刻の日本行きの便まで待機させられ、そのまま帰国した。
呉氏は、「『日帝』だけで歴史は語れない」「攘夷の韓国 開国の日本」「『反日・親北』韓国の暴走 『韓流ブ-ム』ではわからない」といった著作で知られ、韓国メディアからは「親日派」として、「植民地支配を徹底的に美化した」などと批判されてきた。07年10月に母親の葬儀の際に済州空港から入国しようとした際も一時入国を拒否されたが、その後は特に問題は起こっていなかったという。
だが、13年7月になって呉氏が発表したハングルについての論考が韓国側を刺激したようだ。呉氏は「SAPIO」7月号に
「『世界一優れた文字を守れ』ハングル至上主義で漢字を忘れた韓国人は『大韓民國』が書けない」と題して寄稿し、ハングルが優先され漢字が使われなくなった結果として「さらに恐ろしいのは文化の断絶である。古典や史料がどんどん読めなくなり、大学の研究者たちでさえ60年代に自らの指導教授が書いた論文を読むことができないのだから、問題の根はとても深い」などと学問の水準が低下していることを指摘。一例として、「折に触れて漢字の復活が議論されたが、『世界一優れた文字を守れ』と主張するハングル至上主義者たちの反対に遭い、今や教師の世代に漢字を教えられる人材がいなくなってしまった。自分たちの大統領である『朴槿惠』はおろか、過去の調査では大学生の25%が『大韓民國』を漢字で書けないとするものもあった」とも主張した。
ソウル新聞は「親日・反韓女性評論家」 と表現
この記事の内容が7月25日になってウェブサイトに掲載され、韓国メディアの目に触れたようだ。そのわずか数日後の7月27日には、ソウル新聞がSAPIOの記事の内容を詳細に紹介し、「このようなハングルの優遇政策が、世代間の文化断絶を呼んできた韓国人がノーベル賞を受賞できない理由という不合理な分析を出した」と批判した。呉氏のことを「親日・反韓女性評論家」と表現し、過去の著作についても「実は日本の極右勢力が呉善花を立てて代筆したのが有力という分析が出ている。日本の極右勢力は、呉善花のでたらめの主張を根拠に嫌韓論を拡大再生産している」
と攻撃した。
その他のメディアも呉氏の入国拒否のニュースを伝えるなかで、この「SAPIO」の記事に触れており、ニュースサイト「マネートゥデイ」は「韓国語を公に侮辱した」と批判したほか、東亜日報も「とんでもない主張を展開した」と指摘した。









[祈りとは自然との対話のこと 
 こころで尋ねれば こころからの答えがもらえる]

by antsuan | 2013-07-29 07:51 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

昨日は好い天気でした

 昨日はトローリングをして、小振りですが、シイラがたくさん釣れました。

 江ノ島沖には自衛艦の"はしだて"が停まっていました。

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[祈りとは自然との対話のこと 
 こころで尋ねれば こころからの答えがもらえる]

by antsuan | 2013-07-28 06:33 | 自然・ブルーウォーター・競技 | Trackback | Comments(0)

夏真っ盛りなのに 何か寂しい 葉山の花火大会

 夏が始まったばかりの六月に、派手な逗子の花火を観たせいでしょうか、夏真っ盛りの花火大会だったのですが、なんとなく始まりなんとなく終わってしまった、地元の花火大会でした。

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 しかし、それは近くに住む者の我が侭というもの。他の人々は、ずっと前から場所を陣取って、家族や友人たちと賑やかな宴に興じ、その最後の〆が花火なのですから、これで充分なのです。






 [ かんしゃくを起こすと、友人を失う  嘘をつくと、自分自身を失う ]
by antsuan | 2013-07-26 12:42 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(4)

國破れて・・  (他力本願の平和を「隷属」と云う)

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 ようやく「國破れてマッカーサー」を読み終えました。

 敗戦時の、マッカーサー司令部時代の、機密文書をひも解いて明らかになったこととは、わたしたちが「平和」とよんでいるものは、国際的にいえば「隷属」だったのです。

 祖先が、人種差別撤廃のために、宗教(思想)戦争を戦ったように、現代に生きるわたし達も、人間尊重の精神である人種差別撤廃の戦いを、続けて行くべきです。





[ あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい ]
by antsuan | 2013-07-25 17:35 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(10)

子供たちも国会も「夏休み」になりました

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 平日の朝の海は、子供たちが夏休みに入っても、静かなものです。

 参議院選挙は、不正選挙の匂いがぷんぷんと漂う、出来レースともいえる、自民党の圧勝で終わりました。

 選挙管理委員会を監視する必要があると思われるのですが、その役を引き受けている者は、本当に誰もいないのでしょうか。




 [ 分かち合うことが出来れば、悲しみは半分に、喜びは二倍になる ]
by antsuan | 2013-07-24 13:23 | 自然・ブルーウォーター・競技 | Trackback | Comments(0)

『真実』を武器にして戦うのです 情報戦争に終わりはありません

 わたしが何故、西鋭夫著の「國破れてマッカーサー」を推薦するのか。そのわけを端的に説明した「コラム」を見付けましたので、ここに転載いたします。

マイナビ ニュース
【コラム】
岩本沙弓の"裏読み"世界診断
 14 CIAの誘いを断った"最後のサムライ"の渾身の書 - 『國破れてマッカーサー』

岩本沙弓  [2012/06/13]

このコラムは最新の経済分析を中心にお伝えするという主旨のもと、スタートしましたが、今回は少しだけ目先を変えて推薦図書とさせて下さい。経済の"裏読み"とは関係ないではないか、と思われるかもしれませんが、実は関係があるのです。

米国の公文書に基づいた『國破れてマッカーサー』、強いメッセージを発信

わたくしの新刊をご購入、お読みいただいたということで、何ともありがたいことに西鋭夫先生からお声掛けをいただき、直接お目にかかることができました。スタンフォード大学内にあるフーバー研究所教授であり、日本では柏市のモラロジー研究所でも教鞭を執られている先生は名著『國破れてマッカーサー』の著者です。

題名が示唆するように、この本では第二次世界大戦後のGHQ占領下の日本がテーマとなっています。こうした内容の本はとかく、過度な親米・反米に偏るか、あるいは陰謀論を持ち出すことで読み手にいくばくかの衝撃を与えるか、言うなれば小手先の技巧を使って興味をそそるように仕向けるものが多いように思われます。私自身もそうなのですが、そういった偏重や扇動、著者の恣意性に嫌気がさして、この時期の日本に触れた本を手に取ることに躊躇(ちゅうちょ)するという方も多いかもしれません。

この本が他との一線を画しつつも強いメッセージを発するのは、内容が米国の公文書という本物の史料に基づいているから、というのは誰もが認めるところでしょう。先生は米国留学中に米国政府の重要文書が全て保管されているアメリカ国立公文書館に出向き、日本の戦後に関する資料を網羅した最初の人です。

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『國破れてマッカーサー』(西鋭夫著、中公文庫)

なぜ最初と言い切れるか。米国では機密文書の全面公開は30年後とされています。30年経過した日本占領に関する生の史料を入れた数十にも及ぶ箱の上には、うっすら埃(ほこり)が積もっていたといいます。指紋がついていない箱の中身は、30年後に先生を通じて息を吹き返すことになるわけですが、開封する時には「生き埋めにされている日本の歴史に対する畏敬の念」で気持ちが高ぶったと書かれています。

歴史的に重要な生資料だけで「話」を進めてゆくように努力した-そう指摘されているように、「はじめに」と「おわりに」を除いて恣意性を極力排除した筆致が続きます。抑制の利いた文章であるにもかかわらず生の史料が訴える力は強いものです。てっきり筆者の主張のように受け取っていたことが、実は読み手である自分の思いが反映されての錯覚だったという箇所を、何度となく読み返すうちに気が付きます。

叩上げディーラーに教わった"耳を塞ぎたくなるような真実"

私がディーラーとしての道を進むことを決意して、転職した先の外資系銀行で出会った叩上げディーラー(今でも現場で第一線におられますので、性別・国籍も含めご本人のプライバシーに関わる記載は避けます)の方に、沢山のことを教えてもらいました。

時にそれは耳を塞ぎたくなるような真実だったりしたわけですが、「この世界で生き残りたいなら現実を、そして真実を直視しろ」、そう教えてもらったような気がしています。相場で勝つためには日本発の日本経済への偏った見方を変えなければならいこと、日本の一般の経済分析が変調をきたしているのは、大もとを辿れば実は日本の置かれた歴史的背景にあるということ、相場の動きを見ながら折に触れさまざまなことを教示してくれたものです。

中でも印象的だったのは「日本は米国の戦利品」「勇猛果敢な日本を無力化することこそが米国の目的」さらには「イラク占領の指針となっているのは日本占領」などなど、いささか過激な内容のものでした。しかしながら、この歴史的背景の部分を理解していないと、変動相場制以降徐々にドル高に進んだ後になぜ急激なドル安に見舞われるのか、日本政府が為替介入と称して国民の資産を使い、減価するのが明らかな米ドルをなぜ大量に購入するのか、その根本的な理由がわからない―。

米国の公式見解で"日本の無力化"など出てくるのだろうか - その疑念が払しょく

西先生も、外銀での同僚も反米・親米どちらでもありません。私自身も米国で生活をした実体験があるだけに一般の米国民に対しては親愛の情を持っていますし、過去に遡るほど為替介入の実績などを封印している我が国に比べれば、機密書類の全面公開に踏み切る米国の懐の深さ、公平さには敬意を表しています。

「とはいえ、米国の公式見解で日本の無力化などが出てくるものだろうか」、という当時の私の疑念を見事に払しょくしてくれたのが「國破れてマッカーサー」であったわけです。

「原爆について書くことは日本人の報復心を煽る結果になる」

少しだけ内容を紹介すると、例えば、戦争終結のためにはいたしかたなかったとされる原爆投下について。

ロバート・リフトンは、Death in Life: Survivors of Hiroshima (『生きながらの死-ヒロシマの生存者たち』1967年)の中で、「原爆に関する検閲は、原爆について書くことは日本人の報復心を煽る結果になるとの恐怖心が大きな動機になっていた。だが、原爆の破壊力のあまりの物凄(ものすご)さをみて、アメリカ人が困惑し自責の念にかられたことも、原爆を検閲の対象にさせた」との見解を述べた。

アメリカが原爆について、いかに神経過敏になっていたかを示すものとして、1947年4月に行われた広島市長選で、ある候補者がラジオで話をしている途中に、GHQが放送中止を命令した事件があげられる。その候補者が原爆について肯定的なことを言わなかったからだ。


教育制度を占領遂行の「道具」と言い切る電報が存在、真実の直視は重要な指針

日本政府は蚊帳の外のまま、日本再軍備の必要性を説く国防省(ペンタゴン)と反論するマッカーサー、1950年の日本のGNP3兆9,470億円のうち1/3を占めた朝鮮戦争特需。占領行政の中で優先されたのは日本の教育制度の再建ですが、その教育制度を占領遂行の「道具」と言い切る電報の存在など、次々飛び出す事実には誰もが驚き、その延長線上に今の日本があることにあらためて気が付くはずです。

こうした内容は好むと好まざるとにかかわらず広く世に知られる必要があると思いますし、今の日本を包む閉塞感が何に起因しているのか、その手掛かりにもなるでしょう。相場取引でも、国の進む道でも、我々が的確な判断を下さなければならない状況に直面した際に、真実の直視は非常に重要な指針になると思われます。

CIAが西氏をエージェントとしてスカウト、出した答えは「No」

最後に打ち明け話を少々。無条件降伏ならぬ「無条件民主化」と題された英語の論文「Unconditional Democracy」がこの本の原文ですが、米国での発表後に米国の対外諜報活動機関であるCIAが先生をエージェントとしてスカウトにきたそうです。諜報部員となれば夢のような生活? が待っていたわけですが、米国籍となる項目も含んだ契約書にサインを求められた先生は沈黙。出した答えは「No」でした。CIAの誘いを断るなど前代未聞の出来事だったのでしょう、スカウトも慌てふためき理由を問いただします。

「ここで自分の国を裏切るものは、将来お前の国も裏切る、そんなやつを雇う気なのか」

この言葉に当のCIAのスカウトが涙したそうです。それから2年間CIAからのオファーを断り続け、「real last Samurai」の異名を持つ先生です。以下は、先生から頂戴したお言葉です。

「平成は、昭和の初めではありませんので、物書きのプロは、プロのプライドを持って『真実』を武器にして戦うのです。敵はすくんで、逃げております。

"最後のサムライ"を前にわたくしも身が引き締まる思いがしました。そして物書きのプロとして背中を押していただいたと受け止め、執筆に勤しみたいと思っています。

執筆者プロフィール : 岩本 沙弓(いわもと さゆみ)
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金融コンサルタント、経済評論家、経済作家。大阪経済大学 経営学部 客員教授。1991年東京女子大学を卒業し、銀行在籍中に青山学院大学大学院国際政治経済学科修士課程終了。日、米、加、豪の大手金融機関にて外国為替(直物・先物)、短期金融市場を中心にトレーディング業務に従事。その間、国際金融専門誌『ユーロマネー誌』のアンケートで為替予想部門の優秀ディーラーに複数回選出される。現在は、為替、国際金融関連の執筆・講演活動の他、国内外の金融機関勤務の経験を生かし、英語を中心に私立高校、及び専門学校にて講師業に従事。新著『世界恐慌への序章 最後のバブルがやってくる それでも日本が生き残る理由』(集英社)が発売された。






  過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ
by antsuan | 2013-07-23 12:10 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(1)

我が家の梅で梅干しづくり

 今年は、我が家の梅がことの他たくさん実ったので、どうしようか迷っていたのですが、わたしが放っていた間に、カミさんが梅干しづくりに挑戦していました。

 そして、昨日は、カミさんが用事で留守をしている間、その梅干しを、庭に干す役目を仰せつかり、草刈りをしながら、程よい日差しに恵まれて、見た目には、かなり上手い具合にでき上がりました。

 ところで、梅干しが上手くでき上がったどうかの判断基準がわかりません。どなたか教えて下さいませんでしょうか。


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 [ 分かち合うことが出来れば、悲しみは半分に、喜びは二倍になる ]
by antsuan | 2013-07-22 19:43 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(9)

米国の崩壊が続いている  [繁栄した自動車の町、今は昔]

アメリカ合衆国の凋落が止まりません。

 日本も、失われた二〇年に続く東日本大震災と、福島第一原発事故の後遺症を引きずり、けっして健全な状態とはいえないのですが、アメリカは自動車産業もすっかり衰退して、石油資源のなくなったいま、工業立国でも何でもなく、農業国に成り下がってしまいました。

 もちろん、経済の行き詰まった国が軍事大国であるはずもなく、かつてのソビエトと同じように、国家が分裂するのは時間の問題と思われます。

 アメリカ合衆国が崩壊すれば、日本は、東京裁判史観の呪縛から解放され、明治維新のような政治改革が断行されることでしょう。


2013年 7月 19日 13:37 JST 更新
米デトロイト市が破産法申請―繁栄した自動車の町、今は昔
記事
By MATTHEW DOLAN

 米国自動車生産の中心的都市でかつて音楽の発信地でもあったデトロイト市が18日、ミシガン州東部地区の連邦破産裁判所に連邦破産法9条の適用を申請した。負債規模は180億ドル(約1兆8000億円)を超え、米国の地方自治体の財政破綻としては過去最大の事例となる。

 かつて工業国アメリカの力とも言われたデトロイト市は、居住者や企業が郊外に流出して空洞化し、過去数十年間にわたり衰退してきた。

 今後数カ月、法廷での議論や資産売却、2万人の市年金受給者を含むデトロイト市職員と元職員に対する給付金削減などが行われることになる。残り少ない市の資金を巡り、市の債券を保有する投資家は、退職者などと争うと予想される。

 デトロイト市の人口は、1950年の200万人近くをピークとして、現在約70万人までに減っている。連邦政府からの支援削減と不動産価格急落による税収減に見舞われ、デトロイト市は近年、運営費だけでなく、市職員に対する年金や健康保険などの長期的債務も借り入れてきた。

 2000年以降、市の失業率は3倍になり、全国平均の2倍以上に達している。殺人率が40年近くで最高水準にあり、過去20年余りの間、全国で最も危険な都市の一つに挙げられている。事件解決率は、全国平均の30.5%に対し、わずか8.7%となっている。

 市の緊急財政管理官、ケビン・オール氏は、裁判所によらずに市の債務再編を目指してきたが、債券保有者やその他の債権者からの十分な同意を得ることができなかった。最終判断は、ミシガン州のリック・スナイダー知事(共和党)に委ねられた。同知事は、09年にクライスラーの会社再建に手腕を発揮した法律家のオール氏を、今年3月にデトロイト市の財政管理官に任命した。

 ミシガン州の公式ウェブサイトに掲載したビデオのなかでスナイダー知事は「これは難しく痛みを伴う判断だったが、他に実行可能な選択肢はないと信じている」と述べ、「デトロイトの衰退と言う意味において、これは60年間に作られてきた状況だ。財政の見地からすると、率直に言って、デトロイトは無一文だ」と語った。

 スナイダー知事は、オール氏とアンドリュー・ディロン州財務長官に宛てた書簡で、これは「完済が期待できない債務負担の伴わない、新たなスタートの機会」との考えを示した。

 事情に詳しい人物によると、破産法申請は19日なる予定だった。だが、年金基金が17日夜に破産阻止に動こうとするなど一連の訴訟を巡る圧力が高まり、申請に備えているとの情報が漏れて伝わったこともあり、前倒しした。

 当初の申請文書には、デトロイト市の資産と負債がそれぞれ10億ドルを超えるとだけ示されていた。だが、スナイダー知事は、オール氏に破産法適用申請を許可する指示書のなかで、負債は180億ドルと述べた。

 デトロイト市の格付けはジャンク格(非投資適格)で、資金調達の道はほとんど閉ざされている。州関係者によると、新たな歳入を調達しようとしても、住民に対する税率も法定上限に達している。市は機能的に破産しているとオール氏は述べており、最近では市の年金機構への4000万ドル近い支払いができなかった。

 いまのところ、一部の担保権を有する債権者に対し、3億4000万ドル近くの債券について、1ドル額面あたり0.75ドルを支払うことで市は合意している。その代わりに、本来、債券の担保として用いられた市の3カ所のカジノから、毎月1100万ドルずつ税収として回収することになる。

 だが、担保権のない債権者との交渉は、依然として行き詰まっている。こうした債権者は、110億ドルの市債のうち約20億ドルを保有している。




  過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ
by antsuan | 2013-07-20 22:44 | 政治・経済 | Trackback(1) | Comments(2)

戦争を知らない者が平和を語ってもろくなことがない

 平和を軽々しく語るべきではない。二年前の福島第一原発事故を見れば分かるように、なまじ、平和主義を唱えている者のほうが、災害の犠牲について責任を取ろうとしない。

 大正、昭和を生きてきた日本人は、天災、戦災の悲惨さを肌で感じている。そういう生の歴史をしっかりと見つめることこそ、平和への一里塚なのだと思う。

 下の記事は、八十代万歳! (旧 七十代万歳) hisakobaab.exblog.jpの、
[96歳の遺言ーーー選挙の前に読んでくださいますように]から、転載しました。


96歳の遺言

私の大事な孫や曽孫たちへ。
これはおばあちゃんの、「戦争だけは絶対やっちゃダメ」と言う遺言です。

たった一枚の赤紙(徴兵命令書)で人生を狂わされて、戦争が終わって、もっと酷くなった生活との戦いを、一人で戦わされたおばあちゃんの、「戦争だけはやっちゃダメ」という、叫びです。

私は大正6年3月17日生まれ、平成25年の今、満96歳になりました。
目は見えないし、耳もひどく遠いけど、アパートで一人暮らしをしています。次男には先立たれたけれど、遠くないところに嫁も孫もひ孫もいて、時々来てもらえるし、昼食と、夕食の時に、ヘルパーさんが1時間くらいずつきて、ご飯作ってくれる。
他は昼も夜も一人の時間が長いけど、最近自分で、死に支度を済ませたから、血圧も下がって元気が出た。

うちにはちゃんと檀那寺があってね、あたしが死んだら、和尚さんが来てこの部屋で枕経上げてもらえるように頼んであるの。そのお布施も準備してある。
その檀那寺の末寺にお墓も作ってある。遠いんだけどね。

市役所の人が来た時、死んだ後はどうすりゃ良いか聞いたら、12万円用意しておけば、柩も焼き場の費用も全て賄ってもらえるそうで、安心しちゃった。だからもう何の心配も無いの。

だけどね、昭和の戦争で、酷い目に遭った、あの辛い時代を、話せる相手が居なくなった。
友達はみんな死んじゃったもの。
あの時代をいま、話して置かないと、またバカな戦争を始めちゃいそうで恐ろしい。ひ孫やその子孫が、兵隊に取られたら大変だ。戦争だけは絶対やっちゃダメ!

目も耳も脚も不自由だが、口は達者だ。記憶が確かなうちに、聞いて置いてもらいたかった。

たまたま病院で、82歳の人と友達になった。東京の人で、焼夷弾の火の雨を知っているから、話が通じるんだ。私の話を、書いといてくれるというから、じっくり話して記録して頂くことにしたのよ。
では,おばあちゃんの一代記を読んで頂戴ね。



   96歳の遺言         久米 けい

生まれは浅草、観音様の後ろの方。浅草警察の近所。当時は「きさがた」と言った。

母校は富士小学校、今もある。
近くにお富士さんのお灸を据えるので有名な浅間神社があった。

富士小学校の運動会の応援歌はきまっていた。(花咲か爺さんの曲で歌うんだ)

オーフジサンノ 神主が、
おみくじ引いて申すには、
フージはいつでも カーチ カーチ カッチカチ

父親は、建築の方の鍛冶職の親方。鉄の柵とか門扉とか、上野動物園の檻などを作っていた。

北に500mほどいけば吉原遊郭の大門だ。中で、引き手茶屋をやっている親戚のおばさんがいた。
吉原の中に公園があって、午の日が縁日で、夜店が出た。遊郭だけど、子供は自由に出入りができたんだ。
10歳くらいのころ、午の日に、引き手茶屋のおばさんを尋ねると、決まって小遣いを呉れた。
穴あきの十銭玉10個(1円)を、こよりでまあるく繋いだものを、長火鉢の引き出しにたくさん入れてあって、行けば、お友達にまで1束ずつ呉れた。当時の一円はたいしたもので、お年玉にもなかなかもらえない金額だったが、引き手茶屋のおばさんは、気前良くくれるのだった。それを持って、夜店に行っても使いきれる額じゃあなかった。

吉原の格式の高い大店には、引き手茶屋を通さないと上がれなかった。金持ちの客は、引き手茶屋に寄ってから、格式の高い大店の一流の花魁のところへくりこんでゆく。
引き手茶屋は、金持ち相手の商売だから、おばさんは景気が良かったのだろう。

吉原は、お金で買われたお女郎さん達を逃がさないために、堀で囲み出入口は大門ひとつだった。だから火事の度に、逃げ場がなくて多くの女性が焼け死んだ。
関東大震災の時も、ずいぶん多勢死んだと思うよ。

私が6歳の9月1日、関東大震災で、浅草は火の海になった。
両親と、兄と、弟の、5人家族は、急いで観音様の境内に逃げた。そこへ花やしきの人が一人で、足に鎖を付けた象を連れてやってきた。象の足の太さに初めてびっくりした。
母親は「象がもし暴れたら大変だ」と、今度は上野の山に向かった。しかし、「焼け野原の東京にいてもどうしようも無いから、何処でもいい、田舎に逃げよう」母親の決断は早かった。夫婦とも江戸っ子で、田舎はないのに、父親を急き立てて一家5人で日暮里駅を目指した。途中、橋の落ちた川では、赤羽工兵隊の兵隊さんたちが、船を並べて、上に板を渡してみんなを通してくれた。
上野は燃えてしまったから、列車は日暮里から出た。
私らは逃げるのが早かったので、駅に停まっていた列車に座ることができた。向き合った4人がけの座席に親子5人で座っていたが、この時、ホーム側に席をとったことが、幸運を呼んだ。
列車はなかなか発車せず、人々の波が押し寄せ、もう乗り切れなくなっていた時、知り合いの人が窓を叩いた。「親方どこに行くの?」と聞かれて、「田舎はないから、何処か壊れてないとこまで行こうと思って」とこたえると、「そんなら桐生に連れてくから、俺たち3人を窓から乗せてくれ」そこで窓からお婆ちゃんを引っ張り込んで、夫婦を入らせ4人の席に8人以上が重なり合って、桐生まで行った。その人の実家の離れの6畳にしばらく置いてもらい、父親は東京に往復して、家の焼け跡に小さなバラックを建ててみんなで戻った。4年後ぐらいにやっと家を新築できたっけ。

関東大震災で焼けても、親たちがいたから、子供は苦労しなかった。
私は浅草高等家政女学校で、和裁を習い、どんな着物でも仕立てられるようになっていた。

本当は子供が好きだから幼稚園の先生になる学校に進学したかったんだ。それがダメなら、杉野ドレスメーカーって洋裁学校に行きたかった。
親にいうと「何でそんなに外で働きたがるんだ」と反対された。女は家庭にはいれば良いという時代だったんだよ。仕方なく諦めたが、和裁の腕だけでは、後年暮らしは立たなかった。

もしもあの時、幼稚園の先生か、洋裁の先生の資格をとっていたら、戦後の苦労は半減しただろう。私の方が先見の明があったんだよ。

利口だった弟が、9歳で病気で死んでから、両親の運はだんだん悪くなって行った。

昭和の世になって、私が14歳の昭和6年には満州事変が始まった。
始めちゃった戦争を、終わらせる知恵が日本にはなかったんだね。ボロボロになるまで、14年間も戦争ばっかりしてたんだから。
酷い目に遭ったのは兵隊さんだけじゃないよ。女子供や年寄りが、どんな辛い目に遭ったか、ちゃんと言っておかないと、またバカな戦争始めたら大変だ。あんた達が、兵隊に取られるようなことがあったら、それこそ酷いことになるんだからね。

満州事変の頃、近所に可愛い坊やがいて、女学生の私がその子を可愛がっていた。その子の母親の弟で、春吉という人が、私を見染めて将来嫁にしたいとひそかに思っていたんだそうだ。
その時彼に最初の赤紙がきて、満州事変に出征して行った。

帰還してから、板橋に移転していた私の家を探し当てて、嫁に欲しいと言ってきた。親も気に入って結婚が決まったが、彼は巡査だったので、嫁になる者の身元調査は厳しく、親戚まで調べられた。それにもパスして20歳の時25歳の彼と結婚した。
親は「何で一人娘を、危険な職業の人にやるんだ」と呆れられたりしたそうだ。
その頃の結婚だ、親が気に入れば、好きも嫌いもあったもんじゃあないさ。
以前から知っていたから、結婚してもにいさんと呼んでいた。子供が出来てからは、父さんと呼んだ。

夫は、天皇陛下が大好きで、皇宮警察の騎馬警官になりたくて、警視庁に入ったが、その試験に一度落ちて、錦町警察だったかに勤めながら、次の試験を狙っていた。
板橋に住んでいたかったが、巡査は、勤務先の近くに住むことが義務付けられていたので、巣鴨の借家に引っ越した。

けどじきに支那事変が起きたんだ。
昭和11年5月に結婚して、12年7月支那事変が起きると同時に、夫に2度目の赤紙がきた。長男が生まれて半年。結婚生活1年2ヶ月で、夫を兵隊に取られちゃった。もう一度、皇宮警察の試験を受けようという時だったのに。

兵隊に行った人の給与が、留守家族に全額渡されるようになったのは、ずっとあとのことで、私たちには10円しか支給されなかった。ひと月10円で暮らせるわけがなくって、親の援助に頼る日々だった。

支那の戦場で夫は、部隊を救う大手柄を立てたそうだが、酷いマラリアになって、3年ほどで帰還した。
昭和15年4月29日、天長節の日に夫は金鵄勲章を貰った。東京では一人だけだったので新聞報道でも目立った。16年夏の読売新聞に私ら一家の写真と記事が大きく載った。

主婦の友の、昭和17年1月号の、陸軍大臣 東条英機夫人を囲む妻たちの座談会に、私も出たんだよ。金鵄勲章の妻として呼ばれたらしい。

その読売新聞も主婦の友もとって置いたが、引越しを重ねるうちに、なくしてしまった。

金鵄勲章なんかもらったって、病気になって帰されたんじゃあどうしようも無いやね。

マラリアってひどいんだよ。夕方の決まった時間になると、高熱が出て、寒い寒いとガタガタ震えて、暴れ出す。布団かぶせて大の男が馬乗りになっても、振り落としてしまうほどなんだ。

帰ってはきても、マラリアで弱った身体に肺結核を発症、警察の仕事が務まらなくなって、退職しなけりゃならなかった。戦場で病気になって帰っても、何の保証もなかったんだよね。
工場に再就職はしたものの、昭和18年5月19日に、32歳の若さで死んじゃった。可哀想だよ。子供達の可愛いさかりも見られないでさ。
夫の告別式は、実家の父親の百か日の法要の日と重なって忙しかった。逆でなかったのはせめてもの幸いだったけれど。

戦争で病気になったんだから戦病死と認められ、九州の部隊に書類を出した。その部隊が沖縄で玉砕しちゃって、戦争が終わったら、提出した死亡診断書が見つからなくなっていた。それっきりうやむやにされて、結果戦病死とは認めてくれなかったよ。

長男が生まれて半年で、夫は戦争に行っちゃった。
次男が生まれて半年で、今度は帰れないあの世に行っちゃった。
結局私は、いつも誰も頼れないまま一人で頑張るしかなかったんだ。
父親も戦争中六十代で死んじゃったしね、男を頼ることのできない運命なんだろうね。

夫が死んだ時、あの人の姉さんはひどかったよ。「あんたたち親子の面倒までは見られないから」と言って、お骨を勝手に九州に持って帰ってお墓に入れちゃった。姉さん一家は九州に疎開しちゃったし、それっきり、どこのお寺に葬ったのかも知らない。田舎の人は冷たいよ。

後になって、「あの時は何にもしてやれなくて済まなかった。親子で九州へ遊びにきてください」と手紙がきたけど、食うや食わずの最中に、九州まで行く汽車賃が出せるわけないじゃないか。切符でも送ってくれるんならともかく。
結局夫のお墓参りは一度もしたことがない。仏壇でだけ、供養して居る。

父も夫も死んじゃって、母と子供2人と巣鴨の借家で暮らしていた。
空襲が激しくなって、上の子は1年生だったが、田舎がないので、学童疎開に出した。

やがて東京の空襲が激しくなり、3月10日だけじゃなく、毎晩毎晩空襲警報のサイレンで起こされた。

そして、昭和20年4月13日夜、豊島区の殆んどが火の海になったんだ。330機のB29が豊島区を中心に火の雨を降らせた。
焼夷弾ってやつは一個のさやの中に38発も入ってて、空の上で38倍にはじけ飛んで、燃えながら落ちてくるんだ。何万の火の玉が降ってくるんだから、下に居る者は生きた心地はしないよ。

巣鴨は周り中が火だったから、逃げ道がまるでなかった。
2歳半の次男をおぶって、ねんねこ(子供を負ぶって着られる綿入れの半纏)着て、掛け布団一枚持って、どっちに逃げればいいかわからない状態だった。隣組の組織なんてなんの役にも立ちゃあしなかったよ。火の雨の中逃げ惑って、水のある所へ行った。貯水槽の水を、バケツで何杯も何杯も掛けてもらって、布団をぐっしょり濡らして被って、火の中を逃げ回ったら、布団が乾いて燃え出した。それを捨てて、走ったら、誰かが「ねんねこ脱げ~っ」て叫んだ。背中が燃え出していたんだ。東西南北どっちを見ても、火が燃えてるんだからもう地獄だったね。
その後はどうなったかわかんない。焼夷弾の雨に当たらなかったのが不思議だった。そこら中の地面に筍のように突き刺さってるものを、なんですかって聞いたら、焼夷弾だって言われた。
爆弾も落ちて、吹っ飛ばされた。朝になって、爆弾の落ちた丸い穴の近くに居たら、ここで死ななかったなんて、奇跡だ」と驚かれた。

幸いにも空襲の晩 母親は、府中の叔父さんの家に泊まっていて助かった。私らも府中に行ったが、長く泊めて貰える状態ではなかった。親戚にだって、無一文の焼け出されは、いい顔されないからね。みんな自分たちが食べるにも不自由してたんだから。

それからの、住まいに困った時代はひどかったよ。落ち着く暇もなかった。
あの頃はね、家が広くたって、焼け出されの一文無しを泊めてやろうなんて家は一軒もなかったよ。みんな冷たかった。

出征中の軍医さんが借りていた大きな家があって、奥さんが疎開して空き家にしてあるから、住んでいいと言われたが、空き家になってからガラス戸も障子も全部盗まれちゃっていて、雨戸しかない。閉めれば真っ暗だし開ければ寒風が吹き抜ける。屋根があるってだけの家に、家賃払って一冬住んだ。
そんな時、所得税払えって税務署が言ってきたから、私は怒鳴り込んで行ったよ。
偉い人を出してくれって言って、談判した。「焼け出されに、何で税金をかけるんだ」って。そしたら、「今、暮らしに、一人当たり年4000円かかる。お宅は4人だから16000円の収入があったとみなし、その税金だ」という。「そんな収入があったら、こんな苦労はしてないわよ。払わなかったらどうするんですか」って聞いたら「差し押さえだ」って。次の日、税務署から調べにきた人が、家ん中一目見て「奥さん、税金なんかほっときな。鍋釜布団も仏壇も差し押さえにはならないから」と言って帰った。

家にも困ったが、配給はろくそっぽ無いし、闇で食料買うにも、買い出しにいくにもお金がいる。女所帯で子供抱えて、何をどれだけやって稼いだか、覚えきれないさ。

朝霞の畑に行って、人参を5貫匁(20キロ弱)400円で買って,電車乗り継いで船橋まで担いで行って、500円で売った。百円儲けても電車賃は高いし、乗り換え駅は階段だらけだし、割りの合わない仕事だったよ。

死んだ父親が鍛冶屋の親方で、テキ屋の親分と知り合いだった。テキ屋から浅草においでと言われて、道端にゴザ敷いて、いろんなものを売ったよ。惨めでさ、涙が出た。そのうち、テキ屋の子分に結婚しようと言われ、親分にいうと「そいつはまずい、浅草にこない方が良いから」と、板橋のテキ屋の親分に紹介してくれた。
やれることは何でもしたよ。何しろ家族に頼れる男は居ないんだから。

住まいも転々としたが仕事も転々とした。女に勤め先なんてほとんど無い時代だったからね。

テキ屋のよしず張りの売り場が一つ空いていた時、常盤台の八百屋が、キュウリを売りなと、品物を回してくれた。毎日仕入れに行って、安く売ったら飛ぶように売れた。けど町育ちだから、キュウリが夏だけだって知らなかったね。(今みたいにハウス栽培はないから夏野菜は夏だけ)キュウリやナスが終わったら、冬野菜はうちに回してくれる余裕が無くなり、自分でほうれん草の産地まで毎日何度も買い出しに行ったよ。配給じゃあ足りないから、闇の食品はどんどん売れた。でも、運ぶ途中で警察に捕まれば、全部没収された。運び屋から没収した米や野菜は、一体誰の口に入ったんだろうね?

下駄を、栃木県まで買いに行って売ったこともある。当時は下駄履きの人が多かったから、売れたよ。鼻緒のすげ方も覚えた。(靴なんか高くて滅多に買えない時代だった)

勤め口も有ったけどね、月給だと、給料もらうまでのお金がない。日銭が入らなきゃ、今日のご飯がないという自転車操業だから、良い仕事があっても行かれなかった。食べるだけで精一杯の時代が長かったよ。

四畳半ひと間を4500円で借りていた頃、都営住宅に申し込んだが抽選に当たらないから入れなかった。都営の家賃は月1500円、ひどく困ってる者から入れてくれりゃ良いのに、議員や役所の者にコネのある、困ってもいないやつが入れるのだった。
公団住宅は、収入の少ないものは申し込むことさえできなかった。金のないものは安い家に入れて貰えない変な仕組みだったよ。

家賃が払えず二ヶ月溜めたら、いついっかまでに立ち退きますと、誓約書を取られた。それでも行き場がなかったら、大家が踏み込んで来て、縫っていた仕立物をほうりだされた。

貧乏人は蔑まれる。身内からさえ疎まれる。
けど、私が怠けて貧乏になった訳じゃないよ。
国が起こした戦争で、夫も財産もすべて奪われたから、貧乏してるんじゃないか。
今なら、津波で家をなくしても、仮設住宅に住める。空襲で焼け出された者は、仮設住宅の半分もない、四畳半一間だって、法外な家賃を取られてたんだ。国は何も助けちゃあ呉れなかった。何の保障もしなかった。
貧乏は恥ではないが、切なかったさ。

家が無くて困っていた時、池袋の街を歩いていて、ハンコ屋の店先に親友を見つけた。幼馴染がハンコ屋の奥さんになっていた。彼女のご主人は良い人でね、「お金貸すから家探しなさい」と言ってくれた。昭和39年のことだ。地獄で仏とはこのことだったね。
都内は高いので、埼玉の、鶴瀬の駅から遠い畑の中の貸家に入った。近所に風呂屋がない。自分で風呂桶を買うしかなくて、鶴瀬の燃料屋さんが、月賦ですぐに取付けてくれた時は恩に着たね。風呂はついたが、薪も、石炭も、薪を割る鉈も買わなくちゃならなくって、大変だった。

鶴瀬から池袋のハンコ屋に通勤して、給料では足りないから、夜なべで着物の仕立てをしていた。

そこに2年住んだところで、家主が住むからと追い出された。近くに家を見つけたが、自分で買った2万円の風呂桶を、そのまま置いて出てしまった。勿体無かったよ。あれは買い取らせるべきだった。
今度の家には10年以上住んだが、やはり売るので出てくれと言われ、その後みずほ台に25年住み、今のアパートにきて10年になる。ここもどうなるか分からない古いアパートだ。

病院の付添婦も長年やった。完全看護じゃない時代、付添婦は病人の傍に泊まり込んで世話をしたんだ。最期まで付き添った時、遺族が葬式の手配がわからず、お寺との付き合いもなく、右往左往するので、いろいろ教えたりしたものだ。

書道師範の資格をとって、子供達に書道と一緒にお行儀を教えていた楽しい時期もあった。

次男一家が近くにいて、心丈夫だったのに、私の77歳の誕生日に次男が突然死んだ。事故だった。
あまりのことに、何も考えられなくなった。
我が家の男はみんな運が弱いんだね。女ばかりしっかりしていてさ。

私は、派出婦などで無理を重ねたから糖尿病を悪化させて、心臓も悪くなり、近頃はほとんど目が見えない。耳も遠い。急に歩けなくなっちゃって、不自由だが、寝たきりでオムツばっかりになるのは真っ平だから、意地を張って起き上がる。

今が一番楽かもしれないね。
私は何にも頼んでないのに、家族や、いろんな介護の人たちが、みんなで相談して良いようにしてくれる。ありがたいよ。
朝は一人でパンを食べるが、昼と夕方にヘルパーさんが来てご飯作ってくれる。座って自分で食べられる。手はしっかりしているから、箸も使える。これ以上世話をかけないよう頑張っているんだ。

寿命は解らない、死に支度は、できるとこまでやってある。あとはお任せ。
ただ、子孫の代に、また徴兵なんてことがないように、みんなで気をつけて欲しいもんだ。

あたし等は国に騙されたんだ。踊らされたんだ。昭和初期のように、右向け右、右へ倣えなんて踊らされていたら、酷いことになるよ。歴史は繰り返しちゃあいけない。

原発だって同じだ。福島でどれ程の人が泣かされてるか、ちゃんと助けてもいないのに、再稼働したいとか、外国に売ろうだなんて、国は何考えてるんだ?信用しちゃダメだ。

とにかく戦争をする国にしちゃあダメなんだからね。
戦争だけはしちゃあならないんだよ。
戦争で良いことなんか何にもないんだからね。これがおばあちゃんの遺言です。 
2013年5月            久米 けい






[ あなたが生まれたとき周りの人は笑って、あなたが泣いたでしょう だから、あなたが死ぬときはあなたが笑って、周りの人が泣くような人生を送りなさい ]
by antsuan | 2013-07-19 16:23 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(2)