あんつぁんの風の吹くまま

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カテゴリ:文学・教育・科学・医療( 442 )

放射線の単位

 このところ仕事で毎日パソコンの前に座っているのですが、なかなかブログを書く心の余裕がありません。そんなことではいけないと奮い立ってまたマックの前に座ったのですが、書きたい事は一杯あるのにどうにも纏まらないのです。そこで仕事に関係する話を少し書いてみようと思います。

 今日の讀売新聞にキュリー夫人は放射線学の研究のために白血病で死んだと書いてありました。そこで寺田寅彦の「科学とは血の川のほとりに咲いた花園だ」という言葉を引用して、科学者の命を賭けた情熱に敬意を表していました。

 ところがそのキュリー夫人の偉業を讚えて放射線測定の単位にキュリーを使用していたのに、ある時、この単位が使われなくなり、替わりにベクレルとかグレイとかシーベルトなどのほかの人の名前が使われるようになりました。
 
 ちょうどこの放射線の単位が変わるちょっと前に診療放射線技術専門学校に在籍していたのですが、その学校の先生いわく、新しい単位になった人の名の科学者は皆、第二次世界大戦で戦勝国となった国の人であると。
 
 つまり科学の世界でもあからさまにそのような差別が平然と行なわれ、敗戦国の人の偉業を無視しようとしているのです。科学は総ての人類のためにあるのであって、一部の権力者のためにあるのではないのですが、敗戦国である我が国の科学者は、自分たちの研究成果や名声が横取りされる事を覚悟しておく必要があると思います。
 
 話は飛躍しますが、発明や発見などの科学の分野においても、歴史を反省しないのは日本人ではなく、その反対の立場の国の人達である事を、せめてもの腹いせに強調しておきます。
by antsuan | 2005-10-05 21:07 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

ガソリンの値上がりを考える。

 ガソリンの値上がりが続いていますね。二十世紀の後半から、既に石油資源は有限であり、二十一世紀には枯渇してしまうだろうと言われていました。しかし、その後の石油探索技術や、掘削技術の向上によって地球に眠っている石油資源を採る事が可能になり、石油危機は遠のいたかに見えたのですが、やはり心配は現実のものになりつつあります。

 もはや化石燃料を使う事は環境問題から云っても許される時代ではなくなりました。一刻も早く、原子力エネルギーの平和利用の推進を世界的に考えなくてはならないのです。ところが石油資源を利権に持つ国にとって、あるいは企業にとって、それは死活問題に繋がるので何とか先延ばしをさせようと躍起になっています。

 もうお分かりでしょう。原子力の平和利用をさせない国はどんな国なのか。それは石油資源で儲けている国なのです。愚かにも我が国はその尻馬に乗ってはしゃいでいます。原子力船「陸奥」は技術的問題で葬り去られた訳ではなく、政治的に潰されたのです。

 二十一世紀の電気エネルギーは原子力に頼るほかはありません。幸いにして原子力発電の技術は未だ我が国は高度なものを持っています。これからは絶対にこの方面の技術開発を遅らそうとしている国の干渉を排除しなければなりません。

 二十一世紀は日本の世紀です。しかしその輝きは原子力をいかに利用するかに懸かっているといっても過言ではないでしょう。
by antsuan | 2005-09-26 21:31 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

我が家の習わし

 今日は彼岸です。いつものように家族そろって墓参りに行きました。田舎だったら普通の光景だと思いますが、マンションが建ち始めた葉山ではもう珍しいことだと思います。

 お墓は祖父が亡くなったときから鎌倉五山の一つの寿福寺に持ってきています。俳句を作る方はご存知と思いますが、高浜虚子のお墓があるお寺です。祖父の親友であり義弟であった加賀谷凡秋は虚子の直弟子でしたから、多分その関係で寿福寺に祖父の墓を造ったのだと思います。祖父も新潟では高野素十とも親交が有り、恐らくホトトギスの同人であったのでしょう。俳号は可白としていました。
 
 もちろん住職とは親しくして頂いており、子供を連れていくと必ず子供達にお菓子をくださるのです。そんなわけで長男が中学三年にもなっているのですが小学一年生の三男がまだそれを楽しみにしているので、わざわざ家族そろって墓参りに行き必ず住職にご挨拶するのが、我が家の習わしになっております。
by antsuan | 2005-09-23 23:58 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

歴史から学び取るべきもの

 アフガニスタンの無法地帯に足を踏み入れた日本人が殺された。殺されたお二人には気の毒だが、やはり子供と同じ程度に無知で、愚か者としか言えない。彼らは恐らくやくざなどの無法者に出くわして怖い思いをした経験が無かったのだろう。危険な目にもほとんど遭ったことが無かったに違いない。
 
 四十過ぎの大の大人が、それも子供に教える立場の教師が、そんな無邪気な考えでいいのだろうか。本来は、社会にはどういう危険なことがあるかを子供に教えるのが教師ではないのか。
 
 二人は至近距離から頭を撃たれている。恐らくイスラム社会では許されない行為をしたのだろう。二人は必死に謝り許しを請い願ったに違いない。しかし異邦人の謝罪などはほとんど無意味である。以前にも旅行はつい最近まで冒険だったと書いたことがあるが、現実には今なお冒険なのだ。

 国際関係論から見れば、謝罪なんて国際的に全く通用しない。武力を背景とした強いか弱いかの位置関係が国家間を支配しているのが現実である。つまり、未だに法治社会とは無縁であるのが国際社会と言ってもいい。お互いの武力増強を認めない力のせめぎ合いが、昔から今に至るまで、ほとんど普遍的原則として国際関係に横たわっている。

 したがって、日本人が日本のことを考えて国際関係を強化したいと望むのであれば、其れは核保有国になり武力を増強するしかないのである。しかし敗戦を経て、日本人は国際社会を俯瞰して、軍事大国であることが人類の発展に全く寄与しないことを悟り、人類の平和のために、国際社会の中ではわざわざ低い地位に甘んじているのだと、勝手に平和憲法の趣旨から解釈している。

 だが、このような世界平和を本気で考える国は、ほとんど我が国だけと言っていいのではないだろうか。日本は外国人から見て間違いなく特殊な理解不能な国なのだ。

 国家間の約束である、条約を破ることに罪悪感を感じる国を見たことがない。どの国も平気で条約破りをしている。米国であれ、英国であれ、ロシアであれ、チャイナであれ、みんな平気で約束を破っている。彼らが約束を破って謝ったことがあるだろうか。

 今迄学んだ国際関係論から云えば、謝罪はしてはならないと言っても過言ではない。謝罪をすればするほど相手はつけ上がり、事態は余計深刻になるだけなのだ。そういう無法国家が国際社会の大部分を未だに支配していることを、もういい加減に日本人は気が付いて欲しい。
 
 またそれに気付くためにも、今一度、戦後を含めた歴史をじっくり振り返ってみては如何かと思う。
by antsuan | 2005-09-08 23:44 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

ゾッとする学校の性教育

 学校教育については、自分の子供の事でもあるのでそれなりに関心を持っているつもりだが、性教育についてはかなり酷いらしい。どうもそれは思想的なものと関連しているようで、日本は持ち前の純粋さから、海外の発端となった思想のいかがわしさを考えないで取り込み、普及させているようなのだ。

 しかし、普通の大人でも、性教育と思想やイデオロギーとが結びついているとは、ちょっと考えられないと思う。私自身、”マリリン・モンローの言った「自然なこと」について”という題で述べたように、セックスを自然なものとして捉えた方がいいと思っていた。ところが、どうやら狩猟民族のセックス感には、家族のない野生動物社会を念頭に置いた、父とか母と言う言葉も存在しない社会を理想としていて、フリーセックスもその流れの一環として支持されたようだ。しかしそのセックス感は、基本的に人間が野生動物とは違う存在になった背景として、愛があり、家族があり、それが社会を形成するものである事の、基本中の基本を無視してしまった考えである事は、よく考えれば分かる事なのだ。
 
 「性の解放は人間解放である」と言うイメージで、ジェンダーフリーも手塚治虫の新種の無性人間作りと呼応して、学生運動の中にも重点的な思想となってきた。しかし、ジェンダーフリーは、性差を基本とした現代の文明社会を崩壊させようという共産主義思想が原点にある事を見抜く必要がある。
 
  今の日本の性教育は、極めて唯物論的なものであって、「愛がなければセックスしてはいけないという考えを押し付けてはいけない」と、学校の先生用指導資料に書いてあるそうだが、性的衝動を抑える事を絶対悪として教育している今の現状の行き着く先を考えるとぞっとする。
by antsuan | 2005-08-12 18:48 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(4)

儚い命

 昨日のブログにも書いたように、まさに自分がセーリングしていた海面で水難事故があり26歳の方が亡くなった。特に荒れた海ではなく何の代わり映えもしない普通の海だったのだが、同じ時刻、同じ場所で、一人の若者が命を失っていたと思うと、やはり心が穏やかではない。

 友人と、シュノーケルと水中眼鏡を付けて泳いでいての事故だったようだが、真夏の海でも二メートルも潜ると水が冷たい。多分、ダイビングをしていて、冷たい水温に心臓麻痺を起こしたのではないかと想像している。

 事故が起きないように注意しろと、監視所の拡声器でがなり立てているが、そんなの無意味だ。災害が起きないようにするのも勿論大切なのだが、災害が起きた場合の緊急の対処方法とその心構えを身に付けさせる事の方が大切なのだ。

 何時も思っている事だが、どうして学校教育で、危険に対する心構えを教えないのだろうか。法規を教えるのも必要だが、事故に遭いそうになった時、どのように防ぐか、または事故に遭ってしまった場合、どうすれば良いのかを徹底的に教育する必要があるのではないだろうか。

 日本の学校では、なるべく危険な目に遭わないような教育をしているが、それは逆だと思うのだ。危険とはどう云うものなのかを認知させるのが、本来の教育というものだろう。
by antsuan | 2005-08-03 14:39 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

遠い蝉の鳴き声に思う

 今年は蝉の泣き声が少ないようだ。年の周期によって蝉が多い年と少ない年があるようだが、やはりそれだけではなく、開発と云う名の自然破壊が進んでいるせいだろう。そういえば、最近は自然と云う言葉の変わりに環境と云う言葉を使うようになった。何故か。自然が破壊し尽くされていてイメージが湧かないのだろうか。
 
 環境と云う言葉の意味には多少身勝手な部分も含まれているような気がして、正直言って余りなじめない。環境がいいと云う事は、大抵自分にとって都合がいいと云う意味で使われるし、あくまで自己中心的な表現のようで、本当は使わない方がいいと思う。

 元々人間が住むのにいい環境とは、自然破壊をした、他の生き物を排除したところではないのか。科学的に言ってしまえば、人であっても生き物の一種でしかなく、自然の中の環境を考えれば、環境破壊をする動物の最たるものであろう。そんな身勝手な動物には、やはり神様は何時か天罰をお与えになるに違いないと思う。
by antsuan | 2005-07-30 13:55 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

清廉な人

 宮沢賢治、松下幸之助、土光敏夫の共通点は信心深くて、若いときは下積みの仕事をしていたことではないでしょうか。三人とも清廉で庶民のことを想う心を燃やし続けていました。

 この清廉という言葉はもう死語になってしまった感があります。一番悲しいのは、聖職と云われる宗教人に清廉という言葉が不似合いになって来たことです。
by antsuan | 2005-07-22 22:10 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

二重基準のもう一つを探る

 教育についてはいつも考えているつもりだが、自分の子供のことになると、全く自分の考えを実践していないことが分る。三人の息子どもに言うことを聞かすのはとても大変だ。昔の親たちは子供を三人四人それ以上を抱えてよくも育てていたものだと感心する。

 怖いものの代表として地震、雷、火事、親父と昔は言ったものだが、今の親父は全く怖くない。しかし、それは親父だけが弱くなったわけではなく、大人のみんなが弱く優しくなってしまったのだと思う。

 それが日本の戦後の教育と時を同じくしていると感じるのは私だけであろうか。戦後の間違った教育の一つには、歴史教育があげられるが、もう一つ忘れてならないのは、道徳教育だと思うのだ。

 道徳教育というだけで、戦前の忌わしい教育勅語を復活させるのかと拒否反応を示す日本人がまだまだ多いようだが、日本は大和朝廷の昔からダブルスタンダード、詰まり二重の基準をもとにして活きてきた。平たく言うと法律と道徳である。

 明治維新以後においては、日本国帝国憲法と教育勅語の二つを規律として掲げ、日本人は優れた人格形成を成し遂げてきた。しかし、敗戦によりその両方を否定して、民主主義的法律のみを基準にし、わき目も振らず、日本人はその基準を守り物質的には豊かな社会を築き、生きることにある程度の不安のない生活を送ることが出来るようになった。
 
 が、ここに来てその一つだけの基準にほころびが目立ち、それを修正できないがために社会が不安定になっていているのだと思う。やはり、日本人は一神教文明の人々と違って、融通の利いた二重基準を用いてこそ人道的な平和を追及する社会を築くことが出来るのではないだろうか。
 
 そのもう一つの基準とは、やはり道徳であり、それをきちんと守り通せるものが大人と見なされる。そのことによって、大人と子供の厳然とした上下関係がかたち作られるのだと思う。
 
 教育勅語に勝る「道徳基準」の確立が望まれる。
by ANTSUAN | 2005-07-11 22:59 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

留学生の受入れと世界平和

 ちょっとまえに聞いたことだが、チャイナの留学生を受け入れる学校には補助金が出るらしい。これはチャイナだけでなくほかの外国の留学生にも当て嵌るのだろうか。ちょっと気になることだが、とにかく留学生を積極的に受け入れることは、長い目で見れば決して悪いことではない。日本においても、戦後の復興期にはフルブライト留学生という制度を利用して海外に学んだ者が、日に影に産業や文化の発展に寄与したことは事実なのだ。

 教える内容や質についてはいろいろ注文したいところでもあるが、少なくとも日本の現実を海外の人に見てもらうだけでも理解を深めることが出来るはずだ。細かいことを云うのはしばらく止めにしておこう。

 日本は今や世界が羨望するような平和な国になった。それを嫉む国や恨む国もあると思うが、留学生の一人ひとりが、その平和を体験し、自国においてもそれを実現するように活躍することを期待する。

 イランの大統領選挙でイスラム革命推進派の人が大統領になった。しかし、これも民主的選挙で選ばれた結果であり、イランにおいて民主主義が後退したわけではない。核開発の疑惑はあっても、よその国が取り分け米国はイランの政治に干渉するべきではないと思う。
by antsuan | 2005-06-26 10:56 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)