あんつぁんの風の吹くまま

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カテゴリ:文学・教育・科学・医療( 432 )

マリリン・モンローの言った「自然なこと」について

 この前、ダイアナ妃の交通事故死は暗殺ではないかという問題を取り上げたが、実はマリリンモンローの死も謎に包まれている。彼女は睡眠薬を飲んで電話のコードを首に巻いて死んだことになっているが、本当に自殺だったのだろうか。時の大統領、ジョン・F・ケネディーと親しかったことは公然の秘密だった。もし彼女が大統領の子を身籠もったとしたら・・。ダイアナ妃の死とオーバーラップする。

 しかし、何でこんなことを書くのかといえば、少子化の問題なのだ。えっ、全然関係ないじゃない!と云われそうだが、ちょっとは関係があると思うのだ。

 彼女ほど明るいセクシーさで騒がれた女優はいなかったのではないか。残念ながら自分とは親子ほどにも歳が離れているので、生意気なことは全く云えないのだが、どうもそういう気がするのだ。彼女はセックスのことを別に恥じらうことをしなかった。其れが軽い女だと思われていた一面でもあるが、「セックスって自然なことじゃない」と、しっかりした信念を持っていた。

 今の日本はどうだろう。フリーセックスは蔓延し、あたかも遊び感覚になっているような感じがする。つまり、赤ちゃんが欲しくてセックスをするという感覚が失われてしまったのではないかと心配するのだ。マリリン・モンローは決して遊び感覚のセックスを推奨していたわけではないと思う。しかし、少なくとも日本においてはこのアメリカ型のフリーセックスが、「キリスト教の目に見えない規制」という衣を脱ぎ捨てた形で伝わってしまった。其れはマリリン・モンローのせいではないけれども、セックスを自然なものとして認知させてくれた彼女の自殺が、逆にセックスを不自然なものにしてしまった。そういう思いを強くする。

 ここからはかなり強引な個人的意見になるが、近ごろの若い娘は健康的なセクシーさが見られない。此れは男の子にも言えることだ。セックスを子供を産むための厳粛な儀式と考える必要はないけれども、少なくとも健康的な本能であるという気持ちを持ち、ダイエットに気を使うのではなく、赤ちゃんは健康な母体を必要としていることを、若い人達は常に心に留めておいて欲しいと思う。そうしないと本当に赤ちゃんが欲しくなったときには、既に母体の方が目に見えない形で変調を来して、生理的に母体を守ろうとする作用が先に働き、妊娠を拒否する防御反応が抗体反応のように作られてしまうのである。

 赤ちゃんが欲しい女性はスタイルを気にしてはいけない。ややふっくらとした体形にして、赤ちゃんに充分栄養を与えられる状態にするのが最良なのだ。そして、ファーストフードや、インスタント食品はやめて、手作りの自然なものを食べるようにする。此れは夫婦何方も同じように気を遣ったほうが良い。勿論煙草はだめ。お酒もワインか日本酒をコップ半杯くらいなら良いが、それ以上は好ましくない。そして何よりも思春期の子供の教育においては、避妊を教えるのではなくて、正しい妊娠のあり方をきちっと教える必要があると思う。

 「セックスって自然なこと」なのだが、それで妊娠しないのは何か不自然な作用が邪魔しているようで気になる。都会化した先進諸国で少子化が進むのは、このような母体を大事にしない環境になってきていることの証明であると思うのだ。
by antsuan | 2005-06-12 07:24 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

尻切れトンボの教育論

 英語が出来ないことに劣等感を持っている人間なのだが、いつの頃からか開き直って、英語というより横文字を使う人には、英語が出来ないので分かりませんと、とぼけることにしている。特にお役人さんや政治家の横文字好きには閉口する。

 それでも日本は貿易立国でもあるし、否が応でも国際交流をしなければ生きていけない時代となって、若者たちはなんの抵抗もなく横文字を使い、あるいは適当に習得して海外に飛びだしてゆく。パソコンの文字入力もローマ字入力が普通で、中学校でさえもその方式で教えている。英語を第二公用語として認知しようという発議も国会で論じられる昨今ではある。

 本当に日本語が消えてなくなるかもしれないと時々心配することもあるが、しかし、そのうち年をとってくれば私のように、「日本とは、日本人とは、日本文化とは」とかに、横文字文化に慣れ親しんだ者たちも関心を持ってくるに違いないと楽観視している。それは何故かというと、外人の方が近ごろは日本に興味を持ちだし、日本を知るようになったからである。外人より自分の方が自国のことを知らないと気づいたとき、若者は大人になり、本当の文化の意味を理解するのだと思うからだ。そう、外国人という発想ではなく外人という発想が日本の思考文化であることに気づくと思う。

 先に書いた、超過激派革命闘士家重信房子でさえも、娘に日本語を教え、日本の生活習慣を教えている。本当は過去の歴史や文化を否定しなければ革命家とは云わないと思うのだが、それは別の話で、とにかく日本の文化を伝承しようとしたことは他所の文化より優れているという認識の表れのはずなのだ。

 娘のメイさんも、日本が自分を受け入れてくれるか心配だったと胸の内を打ち明けていたが、彼女が思った以上に人々も社会もそして家族も受け入れたようだ。これは日本の社会が昔よりも成熟したことを意味するのではないだろうか。いやひょっとしたら異文化の人を受け入れるというのも日本文化の特質かもしれない。

 こういう文化を教える学校教育の中にも変化が表れて、公立中学校の校長に民間の第一線労働者(ビジネスマン)が就任したりして、世の中の行き過ぎた振り子を戻す動きが出ていることは、教育においても健全的に成熟しつつあることを示しているようで、嬉しいことである。
と、今回は教育について語るつもりでいたのですが、尻切れトンボでした。

 それにしても「ひらがな入力」者の肩身の狭いこと。何とかなりませんか。
by antsuan | 2005-06-10 00:21 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

日本の病院の実態を知っていますか?

このところ医療・福祉・科学・教育の分野の話が少ないが、これは初めは自分の仕事関係の分野なので結構話題が有るのではないかと思っていたが、いざ書き始めると、逆に現役で仕事をしているために何かと差し障りがあるのだ。

 しかしやはり書かねばなるまい。病院の実態を。
 行政の為すべき仕事とは何かを考えよにも書いたが、日本の病院の緊急事態における対応は机上論だけである。実態は、福知山線脱線事故で負傷者の緊急収容要請を受けていたにも係わらず、定期会計検査を優先させた西宮市立中央病院の姿である。全く当てにならない。そう言い切ってよい。

 実は、私の仕事場が有る逗子市では、市長が強力に推進してきた総合的病院の誘致を地元医師会が反対にまわり、進出を希望していた病院が断念する一幕があった。災害時に中核的な存在になる病院を誘致すると云いながら、建物の規模、施設内容、それに組織的なものがはっきりするにつけ、誘致目的に添う病院ではないことは明白だった。全く言葉だけの総合的病院である。病院施設は市長の功績を示すモニュメントなんかではない。バカを見るのは最終的に市民なのだ。

 医療と云うものを生死を賭けた病気との戦いと見るならば、軍隊並みの組織命令系統と展開、訓練が必要である。規模は二の次である。しかし、行政が立案したものはまさにハコモノ主体であって、魂が全く入っていない仏像のようなものだ。更に現実を云えば、ただでさえ自院の患者さんの対応で精いっぱいなのに緊急時に重傷者を受け入れ出来るわけがない。喩えて云うならば、畑作業をほっぽり出して兵隊に駆り出される農民みたいなものだ。やってられない。

 どうか市民の皆さん、緊急時に病院で治療を受けられるとは思わないで下さい。失望するだけです。

 ついでに云えば、防災無線も相変わらず何か有ると怒鳴っているが全く聞き取れない。必死になって聞くと潮干狩りが延期になったお知らせだったりする。阿呆らしくて腹が立ってくる。本当の津波がやってきても誰が防災無線など聞くものか。

 あの電柱の上にバカでかいスピーカーが付いている防災無線を見るにつけ、捕虜収容所か監獄に入れられているような気がしてならないのだ。映画「カサブランカ」でナチスドイツの先遣隊ががなり立てたスピーカーと全く形が変わっていない。ゾッとする。

 話が脱線してしまったが、市民の皆さんにいま一度申し上げます。病院は、行政から危機管理マニュアルなるものを作れとひな形を送り付けられてきておりますが、マニュアル通りに作業が出来るような状態は緊急事態とは云えません。ですから緊急事態が発生した場合は危機管理マニュアル通りには対処いたしませんのでご了承下さい。と、掲示板に書きたいのですが、そう云うわけにはいきませんので、ここでこっそり申し上げておきます。ゴメンナサイネ。
by antsuan | 2005-05-29 00:19 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

女子大生必読の書

 作家藤原ていさんの長女が「母への詫び状」と云う本を書いて、近く山と渓谷社から発売されるそうだ。「流れる星は生きている」は藤原ていさんが実体験を殆どそのまま綴った本である。その当時、背中に負ぶされていた娘が抱いた母親とのわだかまりが、老いた母を目の当たりにして、解けたと云う。

 「厳しく育ててくれたことに、今は思う存分感謝出来る」 親の有り難さは親が居なくなってから分かるものだが、親が生きているうちに分かるのは幸せで親孝行だ。

 この「流れる星は生きている」は壮絶な引き上げ体験を描いた小説で、この題名だけでも絶望の縁を歩んできたことを即座に連想させてくれる。図書館から借りてきて、この題名を見ただけで涙が出てきて、終わりの方だけを読んで涙でぐしょぐしょにして返した。

 宮城まり子の「ガード下の靴磨き」の歌も涙なくしては聞けないのだが、今の若者に当時の状況がどんなに悲惨なものか想像出来るだろうか。いや、是非とも想像出来る人間になってほしいと願わずにはいられないのだ。
by antsuan | 2005-05-25 00:18 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

どうする クールジャパン

 映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の中で、日本製ビデオカメラが最高なんだというシーンがありました。最後のオチにも日本製の四輪駆動車が出てきたりして。

 いま東京の銀座では外国のブランドショップがあちこちに出来ています。アップルストアーも秋葉原ではなく銀座です。なぜか。今や日本人に人気のある品が一流といわれる時代になったのです。つまり外国では、日本人が買わないものは一流ではないという神話が出来上がっているのだそうです。ホント?って、感じなのですが、そうらしいです。
 
 クールジャパン(日本ってかっこいいねぇー)

 バブルが弾けてどんなにコケにされようが、平和な日本。世界の羨望の的にいつの間にかなってしまいました。

 さてさて、我々日本人はどうしたら良いのでしょう。
by antsuan | 2005-05-23 06:14 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

事故原因の報道は慎重に願いたい

 JR西日本の福知山線で、痛ましい事故が起こった。しかし、報道関係者は事故原因について軽はずみに記事にするべきでないと云いたい。世論を間違った方向に向けて調査の妨げにしてはならない。今回の運転手に疑惑があったとしても無責任に想像を膨らませてはならないのだ。

 事故原因について思い起こすのが、ダッチロールの言葉で有名になった御巣鷹山に墜落した日航機事故のことだ。あの時は旅客室との隔壁の部分の修復に問題があって、そこから漏れた空気が垂直尾翼を壊したことになっている。しかし、初めの事故原因の発表がそうであったがために、それが事実となって独り歩きし始めた感がある。以前同じジャンボジェット機内のトイレで手りゅう弾を爆発させた事件があった。その時も隔壁が壊れたが垂直尾翼は何ともなかったのである。実は、香港の空港で離陸時に水平尾翼が壊れて離陸を中止した事件があった。ジャンボジェット機は発電装置のエンジンが機体の最後尾にある。その時の原因は、そのエンジンから燃料が漏れて尾翼付近に溜まり爆発したことだった。このことから御巣鷹山の事故も同じ原因が考えられたのだが、そのことを報道したマスコミは少ない。

 事故は悲しいことであり、あってはならないが、いたずらに犯人探しを楽しむ報道だけは止めにして欲しい。事故を起こしたくて運転する人はいないのだから。三菱自動車のリコール隠しの教訓を活かして欲しいと切に願う。
by antsuan | 2005-04-26 07:22 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback(1) | Comments(0)

広島の誇りロータリーエンジン

日本の電気自動車はなぜ走りださないのか
 いつだったか休みの日にテレビのスイッチを捻ったら、国内の自動車レースをやっていた。トヨタのスープラ、日産のフェアレディーZ、ホンダのNSXなどが競い合っていた。この自動車レース。同じところをぐるぐる回るだけなのに本当に何処が面白いのだか分からない。

 しかし、実はこのぐるぐる回るレースに熱中していた時代があった。それはル・マン24時間レースである。普通、自動車レースはドライバーの腕を競いあうものなのだが、このレースはドライバーよりも自動車メーカーそのものの争いに近いところが面白い。このル・マンの耐久レースで、日本車が優勝したのはただの一回だけ、マツダの車なのだ。世界に優秀な車をたくさん送り出しているにも関わらず、トヨタや日産、それにホンダは優勝したことが無い。どんなにお金をかけても勝てない。車のトータルバランスを要求されるレースだから。それにレースのノウハウまで要求される。あのF1レースで優勝を重ねたホンダでさえ歯が立たないル・マンは、やはり自動車レースの最高峰だと思う。

 このレースが好きになったのはやはりマツダが昔から参戦し、挑戦していたからにほかならない。マツダという会社、いまはフォードモーターの子会社になってしまったが、広島に本社がある、世界で唯一のロータリーエンジンを実用化した会社であることは、プロジェクトXにも紹介されたので知っているとおりで、残念なことにエンジンの排気量を馬力に合わせて規制してしまったので普及しなかった。国内だけでもその規制を取り除いていたら、ロータリーエンジンはもっとポピュラーなエンジンになっていたに違いないのだ。技術革新の芽を摘み取る、利権絡みの体制があったような気がしてならない。
 
 面白いことにオーストラリアではこのロータリーエンジンが隠れた人気なのだ。と言うのも車検が無い国なので、市民が車を改造して乗ってもOK。そこで、部品が少なくて改造しやすく馬力も出るロータリーエンジンが持て囃されるらしい。いま水素を燃料としたエンジン開発の最先端を行っているロータリーエンジン。私も、自動車免許を持っていない人には分からないだろうが、一度は運転してみたい車、それはクラウンでも無い、ベンツでも無い、ロールスロイスなんかでも無い、電気モーターのような滑らかな回転をするロータリーエンジンを積んだマツダの車なのである。
by antsuan | 2005-04-21 00:05 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(5)

山と川と海の科学的常識

 先日のコメントで、山があり川があって海があると言われて、ドキッとしましたね。此れって自分の専門だったんだと。大学では海洋科学なんて訳の分からない学部に属し、卒業論文に塩の研究をやらされたのですが、岩塩を産出するところは元々大昔は海だった証拠で、つまりは海が山になっちゃったのですよ。

 二酸化炭素の排出量と地球温暖化なんて、其れこそ海洋科学の専門領域で、30年以上も前から海水中の二酸化炭素量なんて云うものを測定していました。この海水中の二酸化炭素を海洋植物が一杯取り込んでくれれば、大気中の二酸化炭素は海水にどんどん吸収され問題が発生しないはずなんですけれど・・。

 また、ヘドロや水俣病などの「公害」が問題になっていた時期なので、地球環境についてもその方面から研究しましたが、しかしその研究会は大学当局からの「指導」が入り、教授が左遷となってチョン切れてしまいました。関連会社からの求人が来なくなるというのが理由らしいです。此れが日本の大学の実態ですね。いまはどうだか分かりませんけれど。

 しかし、そこで明らかになったことは、淡水部分は地球の面積で云うと何パーセントにも満たないのですが、その役割は生物生活の上で大変なものなのだと云うことです。干潟や汽水も同様です。冒頭の言葉の通り、山が汚染されれば、川が駄目になり海も汚れてしまい、あらゆる生き物にとって大問題になるのです。
 
 話はずれますが、チャイナの大陸部分は、いま凄い勢いで大気汚染や水質汚濁の公害が発生していて、同時に砂漠化が進んでいます。日本では花粉症が猛威を奮っていますが、本当は大陸からやって来る黄砂と大気汚染が原因ではないかと思っています。これはあくまで個人的な意見としてお断りしておきます。しかし、こういう議論が大学レベルではされているのでしょうが、マスコミから聞こえてこないのが、不気味で仕方ありません。私的な研究会は潰され公的な研究会は政治の匂いがする。

 このように、環境問題は地球規模で考えないとはっきり言って意味を為しません。此れが大学で学んだ成果の一つです。いやいや、ちょっとアカデミックですねぇー。学費を出してくれた親に感謝しなくっちゃ。
by antsuan | 2005-04-14 07:41 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

医用画像総合展を観る

 昨日の土曜日は、神奈川県は暖かい良い天気に恵まれて、各地で花見の行楽客でにぎわった。桜木町駅も行楽客でごった返している。む、そういえば駅名に桜の木が使われているが、ここは桜の名所だったのか。みなとみらいの美術館でルーブル展が始まった。その向こうのパシフィコ横浜では、2005国際医用画像総合展も開催されている。こちらもなかなかの盛況だった。
 医用画像は今やコンピューター画像と言って良いくらいに、フィルムの時代は去ろうとしている。コダックや、アグファといったフィルムメーカーも出展しているが、日本のフィルムメーカーよりも格段に影が薄くなってきた。富士フイルムはこの時代の流れを見越して、ビデオテープやデジカメなど電子部品に参入しているし、コニカミノルタは写真機器からコピー機などに移行してきている。
 展示場を回ってみると、コンピューターを使っていない機器を展示しているところはまれだし、医療画像も、画像の処理ソフトを紹介するところが増えた。最早、処理スピードが云々ということより、サーバーや他のソフトへの連携が売り物になってきている。いやはやこちらの頭も着いて行けなくなってきた。
 ここでは二つほど気に入ったものを紹介しよう。一つはシーメンス社のエッスク線管なのだが、今迄の真空管の概念をぶち破る、液体に浸したエックス線発生装置なのだ。真空にしないだけ装置の寿命が長持ちする。逆転の発想なのだろう。二つ目は東芝がMRI装置を使って、神経の伝わっているところが見られるソフトを開発した。神経が励起されているところを見られるということなのだろう。此れもすごい、そのうち神経回路の正常異常の判別も出来るようになるのではないだろうか。
 展示場を出て思うに、いよいよアトムの時代の幕開けだ。桜吹雪の花びらも、心なしかデジタルの一ビットを思わせる。 
by antsuan | 2005-04-10 07:49 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

デジタル画像診断の話

画像診断の怖い話をちょっとしてみよう。
 CTスキャナー、超音波診断装置(US)、核磁気共鳴診断装置(MRI)やCRなど、最近の医療用画像はほとんどコンピューターによるデジタル処理がされたものである。つまり、これらはデジタルカメラとPhotoshopみたいな画像処理ソフトが一緒になった装置であり、表示された画像がきれいに出てくるので、診断に最適な処理が為されていると思いがちなのだが、それは大きな間違いなのだ。実は血管を描出する方法と、臓器を表示する方法、さらに骨を映し出す方法は相当違うのであって、かなりの画像診断技術を習得した医師でないとその辺は理解すら出来ていない。
 ところが最近のマルチスライスCTスキャナーでは三次元画像までが簡単に作れるようになっているのでますます厄介なことになってきた。今までのアナログのエックス線写真は投影写真であり、いろんなものが重なった画像であることを認識して診るのが普通で、その読影技術がいるが、デジタル処理したものは必要なものだけを強調して、不要と思われるものは消してしまうことが出来ると言うか、表示しないようにしてしまうので、見たいところのすぐそばに病変があったとしても、見たいところだけが描出されて他は無視された画像が出来上がり、診断出来るわけがないのである。
 本来、そのようなことの無いように技師が最適な画像を作る努力をしているのだが、忙しい時は自動的に設定された標準的な画像しか作る暇は無いし、異常画像を見慣れていない技師にはとても最適画像と云うものを作成出来るものではない。従って、技師は未処理の生画像を数多く見て、目を肥やしていなければならないのである。
 余り怖い話を言って医療不信になられても困るので付け加えて言うと、標準的な画像診断について言えば、今までのアナログ画像より遙かに診断しやすくなっているのであって、病気の発見率は高くなっているのが事実である。
by antsuan | 2005-03-25 00:50 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)