あんつぁんの風の吹くまま

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カテゴリ:文学・教育・科学・医療( 437 )

儚い命

 昨日のブログにも書いたように、まさに自分がセーリングしていた海面で水難事故があり26歳の方が亡くなった。特に荒れた海ではなく何の代わり映えもしない普通の海だったのだが、同じ時刻、同じ場所で、一人の若者が命を失っていたと思うと、やはり心が穏やかではない。

 友人と、シュノーケルと水中眼鏡を付けて泳いでいての事故だったようだが、真夏の海でも二メートルも潜ると水が冷たい。多分、ダイビングをしていて、冷たい水温に心臓麻痺を起こしたのではないかと想像している。

 事故が起きないように注意しろと、監視所の拡声器でがなり立てているが、そんなの無意味だ。災害が起きないようにするのも勿論大切なのだが、災害が起きた場合の緊急の対処方法とその心構えを身に付けさせる事の方が大切なのだ。

 何時も思っている事だが、どうして学校教育で、危険に対する心構えを教えないのだろうか。法規を教えるのも必要だが、事故に遭いそうになった時、どのように防ぐか、または事故に遭ってしまった場合、どうすれば良いのかを徹底的に教育する必要があるのではないだろうか。

 日本の学校では、なるべく危険な目に遭わないような教育をしているが、それは逆だと思うのだ。危険とはどう云うものなのかを認知させるのが、本来の教育というものだろう。
by antsuan | 2005-08-03 14:39 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

遠い蝉の鳴き声に思う

 今年は蝉の泣き声が少ないようだ。年の周期によって蝉が多い年と少ない年があるようだが、やはりそれだけではなく、開発と云う名の自然破壊が進んでいるせいだろう。そういえば、最近は自然と云う言葉の変わりに環境と云う言葉を使うようになった。何故か。自然が破壊し尽くされていてイメージが湧かないのだろうか。
 
 環境と云う言葉の意味には多少身勝手な部分も含まれているような気がして、正直言って余りなじめない。環境がいいと云う事は、大抵自分にとって都合がいいと云う意味で使われるし、あくまで自己中心的な表現のようで、本当は使わない方がいいと思う。

 元々人間が住むのにいい環境とは、自然破壊をした、他の生き物を排除したところではないのか。科学的に言ってしまえば、人であっても生き物の一種でしかなく、自然の中の環境を考えれば、環境破壊をする動物の最たるものであろう。そんな身勝手な動物には、やはり神様は何時か天罰をお与えになるに違いないと思う。
by antsuan | 2005-07-30 13:55 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

清廉な人

 宮沢賢治、松下幸之助、土光敏夫の共通点は信心深くて、若いときは下積みの仕事をしていたことではないでしょうか。三人とも清廉で庶民のことを想う心を燃やし続けていました。

 この清廉という言葉はもう死語になってしまった感があります。一番悲しいのは、聖職と云われる宗教人に清廉という言葉が不似合いになって来たことです。
by antsuan | 2005-07-22 22:10 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

二重基準のもう一つを探る

 教育についてはいつも考えているつもりだが、自分の子供のことになると、全く自分の考えを実践していないことが分る。三人の息子どもに言うことを聞かすのはとても大変だ。昔の親たちは子供を三人四人それ以上を抱えてよくも育てていたものだと感心する。

 怖いものの代表として地震、雷、火事、親父と昔は言ったものだが、今の親父は全く怖くない。しかし、それは親父だけが弱くなったわけではなく、大人のみんなが弱く優しくなってしまったのだと思う。

 それが日本の戦後の教育と時を同じくしていると感じるのは私だけであろうか。戦後の間違った教育の一つには、歴史教育があげられるが、もう一つ忘れてならないのは、道徳教育だと思うのだ。

 道徳教育というだけで、戦前の忌わしい教育勅語を復活させるのかと拒否反応を示す日本人がまだまだ多いようだが、日本は大和朝廷の昔からダブルスタンダード、詰まり二重の基準をもとにして活きてきた。平たく言うと法律と道徳である。

 明治維新以後においては、日本国帝国憲法と教育勅語の二つを規律として掲げ、日本人は優れた人格形成を成し遂げてきた。しかし、敗戦によりその両方を否定して、民主主義的法律のみを基準にし、わき目も振らず、日本人はその基準を守り物質的には豊かな社会を築き、生きることにある程度の不安のない生活を送ることが出来るようになった。
 
 が、ここに来てその一つだけの基準にほころびが目立ち、それを修正できないがために社会が不安定になっていているのだと思う。やはり、日本人は一神教文明の人々と違って、融通の利いた二重基準を用いてこそ人道的な平和を追及する社会を築くことが出来るのではないだろうか。
 
 そのもう一つの基準とは、やはり道徳であり、それをきちんと守り通せるものが大人と見なされる。そのことによって、大人と子供の厳然とした上下関係がかたち作られるのだと思う。
 
 教育勅語に勝る「道徳基準」の確立が望まれる。
by ANTSUAN | 2005-07-11 22:59 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

留学生の受入れと世界平和

 ちょっとまえに聞いたことだが、チャイナの留学生を受け入れる学校には補助金が出るらしい。これはチャイナだけでなくほかの外国の留学生にも当て嵌るのだろうか。ちょっと気になることだが、とにかく留学生を積極的に受け入れることは、長い目で見れば決して悪いことではない。日本においても、戦後の復興期にはフルブライト留学生という制度を利用して海外に学んだ者が、日に影に産業や文化の発展に寄与したことは事実なのだ。

 教える内容や質についてはいろいろ注文したいところでもあるが、少なくとも日本の現実を海外の人に見てもらうだけでも理解を深めることが出来るはずだ。細かいことを云うのはしばらく止めにしておこう。

 日本は今や世界が羨望するような平和な国になった。それを嫉む国や恨む国もあると思うが、留学生の一人ひとりが、その平和を体験し、自国においてもそれを実現するように活躍することを期待する。

 イランの大統領選挙でイスラム革命推進派の人が大統領になった。しかし、これも民主的選挙で選ばれた結果であり、イランにおいて民主主義が後退したわけではない。核開発の疑惑はあっても、よその国が取り分け米国はイランの政治に干渉するべきではないと思う。
by antsuan | 2005-06-26 10:56 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

マリリン・モンローの言った「自然なこと」について

 この前、ダイアナ妃の交通事故死は暗殺ではないかという問題を取り上げたが、実はマリリンモンローの死も謎に包まれている。彼女は睡眠薬を飲んで電話のコードを首に巻いて死んだことになっているが、本当に自殺だったのだろうか。時の大統領、ジョン・F・ケネディーと親しかったことは公然の秘密だった。もし彼女が大統領の子を身籠もったとしたら・・。ダイアナ妃の死とオーバーラップする。

 しかし、何でこんなことを書くのかといえば、少子化の問題なのだ。えっ、全然関係ないじゃない!と云われそうだが、ちょっとは関係があると思うのだ。

 彼女ほど明るいセクシーさで騒がれた女優はいなかったのではないか。残念ながら自分とは親子ほどにも歳が離れているので、生意気なことは全く云えないのだが、どうもそういう気がするのだ。彼女はセックスのことを別に恥じらうことをしなかった。其れが軽い女だと思われていた一面でもあるが、「セックスって自然なことじゃない」と、しっかりした信念を持っていた。

 今の日本はどうだろう。フリーセックスは蔓延し、あたかも遊び感覚になっているような感じがする。つまり、赤ちゃんが欲しくてセックスをするという感覚が失われてしまったのではないかと心配するのだ。マリリン・モンローは決して遊び感覚のセックスを推奨していたわけではないと思う。しかし、少なくとも日本においてはこのアメリカ型のフリーセックスが、「キリスト教の目に見えない規制」という衣を脱ぎ捨てた形で伝わってしまった。其れはマリリン・モンローのせいではないけれども、セックスを自然なものとして認知させてくれた彼女の自殺が、逆にセックスを不自然なものにしてしまった。そういう思いを強くする。

 ここからはかなり強引な個人的意見になるが、近ごろの若い娘は健康的なセクシーさが見られない。此れは男の子にも言えることだ。セックスを子供を産むための厳粛な儀式と考える必要はないけれども、少なくとも健康的な本能であるという気持ちを持ち、ダイエットに気を使うのではなく、赤ちゃんは健康な母体を必要としていることを、若い人達は常に心に留めておいて欲しいと思う。そうしないと本当に赤ちゃんが欲しくなったときには、既に母体の方が目に見えない形で変調を来して、生理的に母体を守ろうとする作用が先に働き、妊娠を拒否する防御反応が抗体反応のように作られてしまうのである。

 赤ちゃんが欲しい女性はスタイルを気にしてはいけない。ややふっくらとした体形にして、赤ちゃんに充分栄養を与えられる状態にするのが最良なのだ。そして、ファーストフードや、インスタント食品はやめて、手作りの自然なものを食べるようにする。此れは夫婦何方も同じように気を遣ったほうが良い。勿論煙草はだめ。お酒もワインか日本酒をコップ半杯くらいなら良いが、それ以上は好ましくない。そして何よりも思春期の子供の教育においては、避妊を教えるのではなくて、正しい妊娠のあり方をきちっと教える必要があると思う。

 「セックスって自然なこと」なのだが、それで妊娠しないのは何か不自然な作用が邪魔しているようで気になる。都会化した先進諸国で少子化が進むのは、このような母体を大事にしない環境になってきていることの証明であると思うのだ。
by antsuan | 2005-06-12 07:24 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

尻切れトンボの教育論

 英語が出来ないことに劣等感を持っている人間なのだが、いつの頃からか開き直って、英語というより横文字を使う人には、英語が出来ないので分かりませんと、とぼけることにしている。特にお役人さんや政治家の横文字好きには閉口する。

 それでも日本は貿易立国でもあるし、否が応でも国際交流をしなければ生きていけない時代となって、若者たちはなんの抵抗もなく横文字を使い、あるいは適当に習得して海外に飛びだしてゆく。パソコンの文字入力もローマ字入力が普通で、中学校でさえもその方式で教えている。英語を第二公用語として認知しようという発議も国会で論じられる昨今ではある。

 本当に日本語が消えてなくなるかもしれないと時々心配することもあるが、しかし、そのうち年をとってくれば私のように、「日本とは、日本人とは、日本文化とは」とかに、横文字文化に慣れ親しんだ者たちも関心を持ってくるに違いないと楽観視している。それは何故かというと、外人の方が近ごろは日本に興味を持ちだし、日本を知るようになったからである。外人より自分の方が自国のことを知らないと気づいたとき、若者は大人になり、本当の文化の意味を理解するのだと思うからだ。そう、外国人という発想ではなく外人という発想が日本の思考文化であることに気づくと思う。

 先に書いた、超過激派革命闘士家重信房子でさえも、娘に日本語を教え、日本の生活習慣を教えている。本当は過去の歴史や文化を否定しなければ革命家とは云わないと思うのだが、それは別の話で、とにかく日本の文化を伝承しようとしたことは他所の文化より優れているという認識の表れのはずなのだ。

 娘のメイさんも、日本が自分を受け入れてくれるか心配だったと胸の内を打ち明けていたが、彼女が思った以上に人々も社会もそして家族も受け入れたようだ。これは日本の社会が昔よりも成熟したことを意味するのではないだろうか。いやひょっとしたら異文化の人を受け入れるというのも日本文化の特質かもしれない。

 こういう文化を教える学校教育の中にも変化が表れて、公立中学校の校長に民間の第一線労働者(ビジネスマン)が就任したりして、世の中の行き過ぎた振り子を戻す動きが出ていることは、教育においても健全的に成熟しつつあることを示しているようで、嬉しいことである。
と、今回は教育について語るつもりでいたのですが、尻切れトンボでした。

 それにしても「ひらがな入力」者の肩身の狭いこと。何とかなりませんか。
by antsuan | 2005-06-10 00:21 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(2)

日本の病院の実態を知っていますか?

このところ医療・福祉・科学・教育の分野の話が少ないが、これは初めは自分の仕事関係の分野なので結構話題が有るのではないかと思っていたが、いざ書き始めると、逆に現役で仕事をしているために何かと差し障りがあるのだ。

 しかしやはり書かねばなるまい。病院の実態を。
 行政の為すべき仕事とは何かを考えよにも書いたが、日本の病院の緊急事態における対応は机上論だけである。実態は、福知山線脱線事故で負傷者の緊急収容要請を受けていたにも係わらず、定期会計検査を優先させた西宮市立中央病院の姿である。全く当てにならない。そう言い切ってよい。

 実は、私の仕事場が有る逗子市では、市長が強力に推進してきた総合的病院の誘致を地元医師会が反対にまわり、進出を希望していた病院が断念する一幕があった。災害時に中核的な存在になる病院を誘致すると云いながら、建物の規模、施設内容、それに組織的なものがはっきりするにつけ、誘致目的に添う病院ではないことは明白だった。全く言葉だけの総合的病院である。病院施設は市長の功績を示すモニュメントなんかではない。バカを見るのは最終的に市民なのだ。

 医療と云うものを生死を賭けた病気との戦いと見るならば、軍隊並みの組織命令系統と展開、訓練が必要である。規模は二の次である。しかし、行政が立案したものはまさにハコモノ主体であって、魂が全く入っていない仏像のようなものだ。更に現実を云えば、ただでさえ自院の患者さんの対応で精いっぱいなのに緊急時に重傷者を受け入れ出来るわけがない。喩えて云うならば、畑作業をほっぽり出して兵隊に駆り出される農民みたいなものだ。やってられない。

 どうか市民の皆さん、緊急時に病院で治療を受けられるとは思わないで下さい。失望するだけです。

 ついでに云えば、防災無線も相変わらず何か有ると怒鳴っているが全く聞き取れない。必死になって聞くと潮干狩りが延期になったお知らせだったりする。阿呆らしくて腹が立ってくる。本当の津波がやってきても誰が防災無線など聞くものか。

 あの電柱の上にバカでかいスピーカーが付いている防災無線を見るにつけ、捕虜収容所か監獄に入れられているような気がしてならないのだ。映画「カサブランカ」でナチスドイツの先遣隊ががなり立てたスピーカーと全く形が変わっていない。ゾッとする。

 話が脱線してしまったが、市民の皆さんにいま一度申し上げます。病院は、行政から危機管理マニュアルなるものを作れとひな形を送り付けられてきておりますが、マニュアル通りに作業が出来るような状態は緊急事態とは云えません。ですから緊急事態が発生した場合は危機管理マニュアル通りには対処いたしませんのでご了承下さい。と、掲示板に書きたいのですが、そう云うわけにはいきませんので、ここでこっそり申し上げておきます。ゴメンナサイネ。
by antsuan | 2005-05-29 00:19 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

女子大生必読の書

 作家藤原ていさんの長女が「母への詫び状」と云う本を書いて、近く山と渓谷社から発売されるそうだ。「流れる星は生きている」は藤原ていさんが実体験を殆どそのまま綴った本である。その当時、背中に負ぶされていた娘が抱いた母親とのわだかまりが、老いた母を目の当たりにして、解けたと云う。

 「厳しく育ててくれたことに、今は思う存分感謝出来る」 親の有り難さは親が居なくなってから分かるものだが、親が生きているうちに分かるのは幸せで親孝行だ。

 この「流れる星は生きている」は壮絶な引き上げ体験を描いた小説で、この題名だけでも絶望の縁を歩んできたことを即座に連想させてくれる。図書館から借りてきて、この題名を見ただけで涙が出てきて、終わりの方だけを読んで涙でぐしょぐしょにして返した。

 宮城まり子の「ガード下の靴磨き」の歌も涙なくしては聞けないのだが、今の若者に当時の状況がどんなに悲惨なものか想像出来るだろうか。いや、是非とも想像出来る人間になってほしいと願わずにはいられないのだ。
by antsuan | 2005-05-25 00:18 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)

どうする クールジャパン

 映画「バック・トゥー・ザ・フューチャー」の中で、日本製ビデオカメラが最高なんだというシーンがありました。最後のオチにも日本製の四輪駆動車が出てきたりして。

 いま東京の銀座では外国のブランドショップがあちこちに出来ています。アップルストアーも秋葉原ではなく銀座です。なぜか。今や日本人に人気のある品が一流といわれる時代になったのです。つまり外国では、日本人が買わないものは一流ではないという神話が出来上がっているのだそうです。ホント?って、感じなのですが、そうらしいです。
 
 クールジャパン(日本ってかっこいいねぇー)

 バブルが弾けてどんなにコケにされようが、平和な日本。世界の羨望の的にいつの間にかなってしまいました。

 さてさて、我々日本人はどうしたら良いのでしょう。
by antsuan | 2005-05-23 06:14 | 文学・教育・科学・医療 | Trackback | Comments(0)