あんつぁんの風の吹くまま

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カテゴリ:身の回り・思い出( 518 )

連絡船の女(ひと)

心に残る出会いのエピソードこれはexciteブログの今週のトラックバックテーマへのトラックバックです。

 いまから三十年以上も前の北海道の大学を受験した帰りことだった。急ぐ旅でもないので列車で横浜に戻ることにした。当時は東北新幹線もなく青函トンネルも出来ていない、特急列車と青函連絡船を乗り継いで行く旅だ。

 青函連絡船の客室の半分ぐらいは先の特急列車の乗客で席が埋まっていただろうか。その後、函館からの乗客がドカドカと乗り込んできて、小包みを抱えた婦人が「ここは空いていますか」と声を掛けてきた。少し眠たくはあったが目を覚ましていた私は、「どうぞ」と自分の荷物を別のところへ置いて席を空けた。其の婦人は少し落ち着かない様子であった。しかし自分も家に帰るだけで楽しい旅であるわけではない、客室が暗くなったのを機に目をつぶって休むことにした。

 船はまだ外海に出ていないのであろうか、殆ど揺れを感じさせないで航行している。すると、隣の婦人が声を掛けてきた。「大阪に行くには、東北本線を使うのと日本海側を行くのと、どちらが速いですか」
 乗車券だけで特急券はまだ買っていないらしい。そんなことは乗務員にでも聞いてくればよさそうにと思ったが、接続しているのは東北本線の特急の方である。「すぐに連絡しているのは東北本線の方でしょう。」そう、ぶっきらぼうに応えた。

 彼女は続けて、自分の実家に初めて行かせた子供が風邪を引いてしまって、迎えに来てくれと云うので、此れから引き取りに行くところなのだと言う。私は大学浪人の青二才であった。そんな人間に声を掛けてくること自体が驚きであったが、何することも無い真夜中の連絡船の中である。静かに彼女の話を聞くことにした。

 大阪から結婚のために函館にやって来たが、主人以外誰も知った人がいなくて、新婚当時は毎日まいにち泣いて暮らしていたこと。主人が仕事から帰ってくると嬉しくて嬉しくて本当に抱きついてしまったこと。冬になり雪が降り積もったのを見て、「今日はお仕事休みですよね」と主人に言ったら、「バカッ」と怒鳴られたこと。

 いまでは函館の人になり切っているような彼女の身の上話は、結婚もしていない自分が聞くにはとても恥ずかしく、また相応しくないことのように思えて戸惑うばかりだったが、同時に、閉ざしていた自分の心のカーテンをそっと押し開ける、生暖かい風に触れたような感じがしたのである。

 青森で連絡船を降りるとき、「駅員に聞いてみます」と言ってそそくさと別れの挨拶をしたきり、其の婦人は行ってしまった。最初から他人であった。そして名前も聞かない他人のままであった。

 しかし、旅をするごとに、津軽海峡を渡る想いを語ってくれたこの婦人のことを、初恋の人のように思い出さずにはいられないのである。
by antsuan | 2005-04-16 00:03 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(0)

近くの桜を観ながら思うこと

 先週末に、鎌倉は段かつらの桜並木を通って、鶴ケ岡八幡の池の桜に足を止め、校門に続く満開の桜の中を、子供と手をつなぎ入学式に出席してきました。いいですね。新学期は春に限ると再認識しました。何か自然の摂理にあっているような気がするのですが、いかがなものでしょう。
 学校の桜で印象に残っているものに、映画なのですが、木下恵介監督の「野菊のごとき君なりき」で、確か、校庭の満開に咲いた桜が、愛しの人の死を知るシーンに出てくると思ったのですが、記憶違いでしたでしょうか。モノクロの映画だったのに桜の美しさが滲み出ていたのを忘れることが出来ません。木下恵介監督ならではの演出と思われます。ついでにもう一つ映画では「紀ノ川」です。満開の桜越しに、嫁入りの船が紀ノ川を下って行く場面。此れも素晴らしかったですね。
 そう言えば、"さくら"と言えばフーテンの寅さんの映画を抜きにして語るわけにはいかないですね。倍賞千恵子しか出来ない役だったのではないでしょうか。その数々の名画を作り出した、大船の松竹撮影所は、さる女子大の施設に代わってしまいました。 
 家の周りにも昔は何本か桜の木がありましたが、それが川の護岸工事で一本無くなり、もう一本と切られて、いまは全くありません。そしていつの間にかマンションや住宅が密集する街になってしまいました。
 ここ何十年ぶりかでゆっくり桜を観ることが出来、またこのように思い巡らす時間を得て、その幸せを噛みしめながら一抹の寂しさを感じているところです。

 ブログを始めてようやく一ヶ月が経ちました。まだ一ヶ月なのに一年も書いているような気がします。特に泊まり掛けで旅行する予定も今のところ無いので、もうしばらく頑張って毎日書き込んでみようと思います。
by antsuan | 2005-04-12 06:55 | 身の回り・思い出 | Trackback(1) | Comments(4)

ラヂオ泥棒

 近ごろは物騒な世の中になって来て、近所でも空き巣に狙われる家がよくある。そういわれれば、昔のことだが自分にも泥棒の思い出がある。記憶に残っているので、やはり小学校に上がる前ぐらいだろうか。昭和30年(1960)ぐらいだ。福島駅裏の近くで、一戸建ての風呂付きの社宅に住んでいた。従って銭湯に通うと云うことを知らなかった。ご飯は七輪で炊いていたが、田舎のような土間の台所ではなかった。冷蔵庫はない。ラヂオはあったが何を聴いていたか分からない。このラヂオをよく盗まれたものだ。秋田の実家から炭がたくさん送られてきて、わまりの社宅の人から嫉まれていたと言うから、泥棒も何かありそうな家だと言うことが分かっていたのだろう。
 盗まれて、数ヶ月後に見付かることもあった。多分その泥棒が質屋に持ち込んで通報があったのだろう。母と一緒に薄暗い警察署の証拠品置き場のようなところへ確認のために行った記憶がある。
 実は泥棒を一回だけ捕まえたことがあった。炭俵を入れていた物置きに潜んでいたのを母が見つけたのだ。ところが間の抜けたことにお巡りさんが尋問しているうちに逃げられてしまった。母は父やお巡りさんのことを憤慨していた。子供に話すくらいだからよっぽど悔しかったのだろう。しかし、今に思えば母はその泥棒の仕返しを警戒して、子供に注意をしたのだと考えている。その後も、何度か家の前に糞をした跡が残っていて、これは泥棒が度胸があることを示すためによくやることなのだと言うことを教わったことがある。そして母の勘が当たって、自転車でやってきた泥棒をまた見つけた。今度は大声で叫んだので家に入る前に逃げ出した。母は強かった。
by antsuan | 2005-03-30 06:35 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(0)

ポルノ作家の思い出

 中学時代に漢文の先生から、偏見を持つことはいい事だと教わった。まず人間第一印象というものは大事だし、自分自身の考え方に基づき判断する事の現れなのだから。しかし、同時にその考えが一方的であるかも知れないという自覚も必要である。とも、その先生は言うのを忘れなかった。
 丁度その頃から、ポルノ小説というものが、雑誌や本になって大衆小説の一分野を賑わし始め、その主犯格の梶山季之はポルノ作家として名を馳せるようになった。今読み返してみると全然過激な描写で書かれてはいないのだが、結構、世間は騒ぎ立てていたのである。
 ある時、月刊誌が主催する地方の講演会が自分の下宿している街で開かれることになり、誘われて行ったところ、たまたま梶山季之が数人の作家とともに演者の一人だった。
 もちろん、こちらの彼のイメージはポルノ作家であり半ば軽蔑していたのたが、終戦の混乱期に広島師範学校を卒業するエピソードで、嫌いな授業を一回も出ず、海岸で塩作りの内職をしていて卒業証書をもらえそうになかった時、おまえの顔を見たいといったその先生に会いに行ったら、おまえが梶山かよく来たな。といって卒業させてくれた話で、朴訥と話す姿にすっかり魅入られてしまった。隣に立っている手話通訳の人を気づかい、最後に、食べて行けないので上京したら、黙って付いてきたのが今の女房ですといって話を終えた。
 その後10年も経たずに彼は香港で客死するのだが、雑誌などのいろんな記事を読んで、実に多くの人が彼を尊敬していたことが分かった。
 田宮二郎という「白い巨塔」の教授役で有名な俳優が飲み屋で客と喧嘩になった時、一緒に飲んでいた梶山氏がやめろと言って、喧嘩相手に気が済むまで俺を殴れといいながら眼鏡を外したのだそうである。
 また、未亡人になった大宅壮一の奥さんが、日本航空のメキシコ便開設の記念飛行に招待され、メキシコシティーに下り立った時、見ず知らずの日本の若者が出迎えに来てくれて、暑さと長旅に疲れた彼女の世話をしてくれたのだが、その若者の、梶山さんに頼まれましたという言葉に、こんな遠くにいる若者までが梶山さんを信奉しているのかとびっくりしたそうである。また未亡人の孫と梶山氏の娘さんが同じ誕生日で、毎年、ケーキを頂いていたのだが、ある時梶山氏自身の娘さんのものと間違えて届いて、全く同じものをいつも届けていたことが分かって、その気遣いに感謝したと、語っていた。
 実は、梶山氏は上京したもののなかなか職がなく、ルポライターになっても食べて行けず、奥さんが喫茶店を開いて生活を立てていた。作家として有名になっても似たようなものだったらしい。普通だったらそんな亭主とはさっさと別れてしまいそうなものだが、奥さんは葬儀の時、もっと楽しませてあげれば好かったと号泣したそうである。
 もともと梶山氏はルポライターの草分けで、彼自身、もしどこかで死ぬことがあったら暗殺されたものと思えと言っていたほど、政界や財界のどろどろしたものを暴露していたのである。彼が単なるポルノ作家ではないことは世間の人は承知のことであろうが、ここで改めて強調しておきたい。
 自分にとっては、その後、人に会うとなんとなく偏見を持つことに気をつけるようになり、右左あんつぁんの腕を磨くようになった出来事の一つである。

*亡くなられた所は台湾ではなく香港でした。訂正いたします。
 また今年は没後30年ということです。
by antsuan | 2005-03-24 07:32 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(0)

葉巻きとパイプ

 昨今、タバコの有害キャンペーンがかしましい。 かく言う本人も嫌煙派なのでありますが、小さい頃は周りで皆、煙草を吸っていたのでタバコをくゆらす雰囲気が嫌いな訳ではないのです。そのせいか、近頃のやれタバコの箱に有害性を大きく宣伝しろなどという規制には、右左あんつぁんの心がムラムラと何となくしてくるわけでありまして、少しは愛煙家の話でもしてみたいと思います。昔の映画では煙草を吸うシーンが必ずありましたね。それもなかりサマになっていてかっこ良かった。しかし、そのせいでジョン・ウェインや、ユル・ブリンナーなどは肺がんになってしまったんでしょうな。やっぱりタバコはよくない。ところがもうちょっと前の物になりますと、紙巻タバコではなく、パイプやら葉巻のシーンが多く出てくる。日本では次郎長ものなどに煙管 (キセル)を吸う場面がよくありますね。どうやら煙草は高級品であったことがそんな映画などで何となく分かってくる。
 自分の周りでも、大学の教授だった祖父はキューバの葉巻だったし、大会社の監査役をしていた叔父はパイプがすごく似合っていた。そして葉巻もパイプも匂いはキツいが、その香りに品があったように思う。そう考えるとやっぱり煙草は高級な装飾品として認知させてもいいと思うのだ。ある写真家がチャーチルのポートレイトを撮る時に、口にくわえていた葉巻きを取り上げて、怒った顔の写真を撮ったことは有名である。ある意味で葉巻きやパイプは装飾品なのだ。
 タバコにフィルターが付いて、どこでも簡単に吸うことが出来るようになったことは、嗜好品として特化してしまい、装飾品としての価値をはぎ取って、かえって喫煙量が増えて健康を害する結果をもたらし、また煙草に漂う品をも無くしてしまった感がある。いっそのこと紙巻タバコを禁止にすれば、ドトールコーヒーやスターバックスのように、タバコの吸える一種の専門店が出来て、また変わった煙草文化が生まれるかも知れない。
by antsuan | 2005-03-18 07:17 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(0)

逗子駅の赤絨毯

 このところ皇位継承問題や皇太子妃雅子様のご静養問題などで、若い人でも皇室のことに少しは関心があると思う。
 広島に生まれ、新潟で教鞭をとり、戦後再び横浜で教鞭をとることになった祖父が、葉山を終の住み処にすることを決めた理由は御用邸があることのようだった。小さい頃、祖父が自分で作った神棚の脇に飾られた花の絵の額を外したことがあったが、その絵の裏には御真影、つまり天皇皇后両陛下のお写真が飾られていた。
 また私自身、学校の帰りなどで逗子駅にいる時、何度も拝見したことがある。ホームから改札口を過ぎて車の乗り降りするところまで赤い絨毯が敷かれるので、お召し列車が到着することはすぐに分かった。
 昭和天皇は、絨毯の脇に並んだ我々に向かって、テレビでお馴染みの、帽子をちょっと振るしぐさで挨拶され、ゆっくりお車で御用邸に向かわれた。昭和は30年代のことである。その頃の皇太子妃美智子様は、それはそれはお美しかった。過去形で書いては失礼かと思うが、とにかく聖母マリア様はこのような方だったのだろうと想像するぐらいにお美しかった。何せこちらも小学生、まだ純粋だったんでしょうね。
 その高貴な方と巡り合えた場所、逗子駅は、今でも横須賀駅と同じ、ホームと改札口が段差の無い今風に言えばバリヤーフリーなのだが、ついにこの間その改札口が改装されて立ち食いそば屋になった。嗚呼。
by antsuan | 2005-03-15 06:45 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(2)

作家の名前

 三月十三日の讀売新聞に三浦綾子の「塩狩峠」が実話であったことが書かれていた。この本をまだ読んでいないが、と言うか三浦綾子の本を一度も読んではいないのだが、彼女がキリスト教信者であったことはよく知っていたので、多分そちら方面の物語であろうことは想像がつく。そういえば彼女はもう故人だったのだ。
 先ほど述べたように三浦綾子の本を読んだわけでも、彼女に会ったわけでもないのだが、彼女の名前は自分が一時期特別な環境にいた時に覚えた名前だったので忘れることが出来ないのである。
 それは中学三年の夏休みのことだった。就職勉強をしている親戚の兄さんが、私の高校生の兄を臨時に作られた裏磐梯の学生村に誘ったのである。しかし、兄は行く直前に嫌がり出して、急きょ理由もなく弟の私が行くことになった。福島市には小学一年まで住んでいたことがあったので一人で行くことに不安はなかったが、ようやく電気が引かれたというような村落といったイメージがぴったりの知らない土地へ行くことは、一つひとつが大人の経験だった。
 その学生村に集まっている学生はほとんどが大人で、親戚の兄と一緒とはいえ自分には場違いの場所である。ある人は芸大に受けるべくフルートを吹いていたし、学生は皆、その農家の空き部屋でじっくり勉強をしているのである。店も雑貨屋が一軒だけ。そんなところで誰と接触することもなく一日を過ごすことが出来るのであるが、朝と夕だけは村の集会所に学生が集まって食事をすることになっていた。そこではテレビはもちろんラジオもない。社会のことを知るには唯一新聞だけであった。
 ところが、毎朝来るその新聞をある女子大生が独占していたのである。みんなが見たがっていた新聞を真っ先にその女子大生が読んでいるのだった。私はその人が何故みんなの迷惑を顧みずその新聞を読みたがっているのか知りたくなった。しかし見ず知らずの女の人にそんなことを聞くのも近づくのも恥ずかしい。さらに彼女が読み終わった後は他の学生がその新聞を読みあさるので、朝食の時間に新聞を読むのは不可能だった。
 だが、程なくして古新聞の切り取られた部分を見て彼女が何を読もうとしていたのかわかった。それは連載小説の部分だったのである。朝日新聞は懸賞付きの小説を一般から募集し、その発表作を連載していたのである。それが三浦綾子の氷点であった。
 それ以来私も連載小説を読みふけるようになり、新聞というものを読む人間に成長した。
by antsuan | 2005-03-14 07:14 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(4)

卒業式の思い出ありますか。

 卒業シーズン。この題目で何かを書くとすると色々なことが思い浮かびます。中学、高校の卒業式はほとんど覚えていません。いやいや正直に言うと小学校も大学の卒業式もうろ覚えでしかありません。が、しかしキリスト教系の小学校でしたが、間違いなく君が代を斉唱しました。日の丸もありました。
 その為か、その後の公立の学校教育ではそれが好くないこととなっていったことに気が付きませんでした。最近でこそテレビでサッカーの試合開始時に国歌を歌う場面を放送していますが、NHKは相撲や競馬などではその場面をカットしていたのです。今でもそうかも知れません。ま、しかしマスコミのことはまた別の機会に書くことにして、その教育界の風潮はとても理解できないことでした。
 今では、彼らの考えが民主主義ではなく社会主義思想であることがよくわかります。つまり彼らは、日本が同じ民主主義国家の米国に負けたお陰で「国家なくして民主主義なし」ということを身をもって感じる必要が無かったわけです。思えば米国と戦って負けたことはどんなに幸運だったか。これがソビエトやチャイナだったら、チェチェンやチベットのようになっていたに違いなく、思想弾圧による抹殺や粛正で、原爆や焼夷弾による虐殺だけでは済まなかったでしょう。
 さらに占領軍司令官のマッカーサー元帥は日本の教育勅語に基づく学校教育を改めるべくキリスト教系の学校を優遇しました。ところが面白いことに私が学んだキリスト教系の小学校は、公立学校が君が代や日の丸を否定していた時代にも、君が代を斉唱し日の丸を掲げていたのです。きっと校長は、「国家なくして民主主義なし」ということを十分にそして真剣に理解していたに違いありません。
 同じ小学校を息子が卒業します。私が卒業するときに目を濡らしていた担任の先生も当時の校長もまだ居られます。きっと、校歌や君が代そして仰げば尊しを歌うとき、、いや、もう考えるだけで涙が出ます。
by antsuan | 2005-03-13 00:20 | 身の回り・思い出 | Trackback(1) | Comments(3)