あんつぁんの風の吹くまま

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カテゴリ:思想・瞑想・時代考証( 618 )

アイリス・チャンの死

 「南京大虐殺ーー第二次大戦の忘れられたホロコースト」を1997年に書いたチャイナ系アメリカ人、アイリス・チャンが自殺した。36歳で、夫と子供を残して。この自殺を日本の報道機関はまだ発表していないらしい。
 実は、この本を論評抜きで紹介したNewsweek日本語版に対して、抗議の内容の投稿をしたことがある。昨年末には「南京大虐殺の写真を検証する」と言う本が出た。百パーセント偽の写真であることが裏付けられたと云う結果を書いた検証本だが、アイリス・チャンが此れを見てどう反論するだろうかと、ふと頭をよぎった。
 正直言って、この事実が自殺の動機になっているかも知れないと思うのだ。歴史的問題を書くには、彼女は若すぎると当時から思っていた。まるで大学の卒業論文みたいに、教授から資料を提供されて書いたような感じが拭いきれなかった。勘ぐって言えば、この資料提供元がバレるのを恐れて殺されたのかも知れない。
 日本人は前にも書いたように、自分たちの国の歴史を十分に習ってきていない。南京大虐殺については殆ど冤罪に近いと断言したい。そのことを知りたいのならば、真っ先に勧めるのが、鈴木明著の「南京大虐殺のまぼろし」という本だ。その他、歴史全体を知りたければ、ここにも載せた「渡部昇一の昭和史」が、きわめて時代考証を踏まえた名著である。
 アイリス・チャンの死はお気の毒だが、日本人にとって、出版された本だけが独り歩きし始める恐れの方が心配だ。

 ※ 年齢が間違っておりました。32歳ではなく享年36歳ということです。またお子さんの年齢も定かでないので削除しました。お詫びして訂正いたします。
  また、題名もあちらでは「レイプオブナンキン」という衝撃的な内容の本であることを付け加えます。
by antsuan | 2005-04-01 00:31 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)

いろいろ言いたいペイオフ解禁

 とうとう来月からペイオフ制度が実施される。日本の金融問題はこれにて一件落着と言うことなのだが、果たしてそうなるだろうか。まず解禁と言う言葉がおかしい。正確には「ペイオフ制度施行」だろう。禁止が解かれても喜ぶことではないからだ。
 次にやはり昭和大恐慌の「金解禁」とイメージをダブらせてしまう。政府はこの制度を施行するために、金融の安定化を必死になっていろいろやってきたが総ては逆効果だった。体力の無い銀行を潰したり、あるいは不良債権を早く処理させて体力のある銀行にさせようとしたが、かえって不良債権を生む結果になり、いまだに銀行の体力は弱ったままである。こんな状態でペイオフを解禁したら、取り付け騒ぎがいつ発生してもおかしくない。確かに株式市場は7000円台から、1万1000円台にまで回復したが、これは民間企業の体力がついてきただけであって銀行の体力がついて来たお陰ではない。
 それと、またまたタイミングが悪い。原油価格が高騰し円安になっている。輸入品の物価が上がるのは目に見えている。銀行に金を預ける余力など市民には無くなってしまうのだ。どんな小さな銀行でも、今度潰れたらペイオフが実施される。その時の国民の不安心理は相当なものだろう。
 最後に「ペイオフ解禁」はやっぱり国民のためにならないと言いたい。資本主義国家であり、企業が責任を負うのは銀行と言えども当然なのだが、銀行の頭取など経営者に責任を厳しく追及する制度が出来て実施してきた以上、今の段階ではペイオフは必要ないと思う。
 いよいよハイパーインフレーションの時代がやって来るかも知れない。
by antsuan | 2005-03-31 07:39 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback(2) | Comments(3)

散る美学

 日本では桜の開花もそろそろの今日この頃だが、小さい頃に福島で育ったものだから、桜と云うとサクランボの実の方を思い出すことが多かった。もちろん、福島では阿武隈川の辺の桜も忘れることが出来ない。桜自慢を言い出したら、それこそ全国あちこちから手が上がるだろう。海の向こうのワシントンは、ポトマック川のソメイヨシノは何時ごろ開花するのだろうか。ブログをつけ始めてから、外国に住んでいる方も見て下さることがあると思うと、妙に地球規模で考えるようになったみたいだ。
 あちらの桜は、直ぐには散らず2週間以上は咲いているのだとか。日本から持って行ったものなのに不思議な気がする。いや本来は、日本の桜が散るのが早すぎるのかも知れない。そうでなければ、散る美学が生まれる訳は無い。さらさらと桜吹雪に舞って散る桜。あの爽やかさを、死に際と対比させるのは何故なのだろう。年を取ってくるとどうしても死を身近に感じぜらるを得ないのだが、でんでんむしさんの「無理しないで安楽に死にたいな」にあるように、さらっと死を迎えたい日本人の願望と一致するからだろうか。
 また、日本放送協会の前会長のように不祥事を起こしても恋々と椅子に噛りついているような姿を嫌う日本人の性格が、桜の散り方に想いを寄せるのだろうか。
 しかし、どんな人であれ人生を全うしたいと思うのは当然なのだ。だが、いつそれを全うしたかを見極めるのは難しいことである。だから任務について言えば、任期をつけるのは妥当なことだと思うし、敢えて言えばその任期中に辞めさせるのは勝手すぎるのではないか。そのようなことを考えると、職務に就いている者は常に後継者育成を心がけておかねばならないと思う。軍隊では指揮官が倒れたら次に誰が指揮をするかを必ず決めている。
 死は突然訪れることもある。蕾のまま萎れてしまうこともあると思えば、たとえ一瞬であろうとも咲くことが出来るのは幸せなのだ。また桜の季節がやって来た。年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず哉
by antsuan | 2005-03-29 05:32 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)

何処まで教わったか

あなたは歴史を何処まで教わりましたか。
 ある調査によると、戦後生まれの日本人は、中学高校で歴史教科書を最後の所まで教わった者は二割程度しかいないらしい。吃驚したと同時に恐ろしいことだと思う。歴史教科書を云々言う以前の大問題である。実は、自分も最後まで教わらなかった。それは先生が時間配分を間違えたからだと思っていたのだが、真相は違っていたようだ。どうせ教えないのだったらその分授業を減らそうと云うことで、土曜日も学校を休みにしたのだろうか。こう言うふうに話をずらして行くと、じゃぁ授業料を安くすりゃいいだろうなんて、問題をすり替えてくるので、冗談はさておくことにして。
 今まで余り問題にしなかったのは、少なくとも50過ぎの年配者は、その教わらなかった部分と云うのが、親の世代のことであり、周りに直に聞くことが出来たからだと思う。だが、それ以降の者にとっては教わる伝手が無い。彼らがシラケの世代になったのはよく分かった。
 こりゃ、韓国の大統領に歴史を反省しない国民と言われても仕方がないわけだ。歴史を教わっていないのだから反省なんか出来るわけが無い。それで知らない以上、声高に言われればそうだろうとしか言えないのも当たり前のことだ。
 どうやらマジで、歴史教育をやめ、道徳教育をやれという意見も教育界でささやかれているらしい。此れは外国の陰謀ではないのか。この国の将来は如何に。かなり心配になってきましたょ。                   右左あんつぁん
by antsuan | 2005-03-27 05:37 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(4)

チカラについて考える

 力と力、圧力と能力、外向きの力と内向きの力。日本語で言う「力」には何種類かの意味が込められていて、本質を見失うことがある。
 いま問題になっているのは、日本の外交力という言い方をするときの力である。特に武力と対比されるのでややこしくなるのであるが、外交的圧力と外交能力あるいは外交手腕が混同されやすい。もちろん外交能力がなければ外交的圧力など発揮されないので同じことであると大まかに言えば言えないことはない。
 しかし、武力、軍事力による圧力を否定した日本にとって、国民は政府の外交的圧力の発揮に期待していた。ところが、北朝鮮や中国、更には韓国の居丈高な恫喝を受け、政府あるいは外務省の外交能力の欠如にようやく気付き、武力による自衛権の容認という方向に動き出してきた。振り子を元に戻す動きであり常識の範囲内である。だが、やはりここで忘れてはならないのは、外交力、外交能力、外交手腕が弱いと、武力に頼りがちになり、それが戦争になり、結果的に社会全体を不幸にするという過去の経験である。
 実は今日においても、外交能力の欠如は米国の核の傘と云う武力に頼ってきた結果であると云って過言ではないと思う。日本は米国の武力の傘からはみ出るほどに経済が発展したことに気付かず、外交圧力においても米国依存の考えから脱し切れていないのだ。当然、米国からの外交圧力にはほとんど無抵抗となる。
 これからの日本は、武力の有無に係わらず、国民の立場に立った外交能力を高めることのみが自国を発展させる鍵であり、国際交流を盛んにすれば解決すると云ったものではない。それは政治能力を高めることをせずして実現するものではなく、国民一人一人に課せられた究極の課題なのである。
by antsuan | 2005-03-26 01:29 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)

憲法改正を待ち望む

 どうもこの頃の国会議員を見ていると、議員としての素質にふさわしくない人物が多いように見受けられて仕方がない。とは言っても民主主義の世の中、国民が選ぶのだから、それも何万人、何十万人もの支持者がいるのだから、国会議員は国民そのものであるわけで、議員の素質は国民の素質そのものといっていいのかも知れない。そう考えると、学歴詐称の議員やら、最近のお乳モミモミの議員さんはごく普通の国民のやっていることだと思って嘆くわけにも行かない。
 歴史書に拠れば、日本は八百万の神の時代から、集まって議論をし決定することを是としてきた。素晴らしいことだと思う。しかしながら、近年においてその機能が十分うまく果たされていない。それは何故だろうか。太平洋戦争は残念ながら、普通選挙において選ばれた国会の内閣によって実行されたものだ。
 その原因は三権分立が確立されていないためだと思う。米国のように予算案たりとも議員が立案し提出して、議会の運営は議長に委ねる。法案が間違っていれば裁判所が明確に無効の判決を下す。今は法案の作成も議会の運営も法律の解釈もみな役人に権限を与えてしまっている。戦後、復興を急ぐあまり官僚主体の統制体制を認めてしまった。あれから60年を経た今、この間違いを正すのはやはり国民の責任であろう。
 憲法改正が、この間違いを正し、新しい日本の礎になることを祈るのみである。
by antsuan | 2005-03-22 06:52 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)

万博のディートリッヒ

 愛知万博がいよいよ開催される。日本では過去にも結構いろんな大博覧会が開催されている。大阪の万国博覧会、沖縄の海洋博覧会、筑波の科学博覧会など大きなものだけでもこれだけあって、また二十一世紀にもやるのかとちょっと溜め息をついてしまうのだが、夢を広げるのにはこんなものが必要なのかも知れない。と、あまり興味が湧かないのは、今までにどの博覧会にも行ったことがないからなのだ。
 しかし、万国博覧会といえば思い出す本がある。それは、「南京大虐殺のまぼろし」を書いた鈴木明著の「リリーマルレーンを聴いたことがありますか」である。その本の内容にちょっと触れてみたい。
 大阪の万国博では著名なアーティストを呼んでイベントを盛り上げていた。そして、万博の最後に往年の名女優で、歌手のマレーネ・ディートリッヒを呼ぶことにしたのである。しかし、この企画に非難の声が上がった。いかに有名女優であっても、もう60歳を過ぎた歌手の歌をわざわざ聴きに来る人はいないだろうというのが大方の意見だったのだ。ところが、切符を販売し始めると5枚、10枚と売れて完売してしまった。また、ディートリッヒの公演のことを知った各国大使館の関係者が切符を欲しがって、主催者を慌てさせるまでになった。 そしてその日、公演に集まった客は皆、正装の紳士淑女ばかり。ディートリッヒは張りのない声でボソボソと歌いつづけ、いよいよ最後の曲になった。多分、客の多くは最後に彼女が何を歌うのか知っていたのだろう。いや、絶対分かっていたのだ。ディートリッヒが歌い始めると次々に観客が立ち上がり、一緒に歌い始めたのである。あのリリーマルレーンを。 第二次世界大戦中、前線の兵士たちは、ラジオから流れてくるディートリッヒのあの歌を聴けることが、生きている証だったのだ。だから、あの時の苦しみを知っている人たちにとって、絶対忘れられない歌なのだ。 公演は大成功のうちに終了した。
 今度の万博でもこのような素晴らしいイベントがあることを祈っている。
by antsuan | 2005-03-21 06:01 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)

自浄能力

 科学は進歩するが人間の生き方というのはそう簡単に進歩するものではありません。となると、歴史は繰り返すというのは当たり前のことなのでしょうね。つまり自分が身をもって体験したことは教訓に活かすでしょうが、先人達の経験については伝え聞いたとしても、体験していない以上痛みが分からない。だから、痛みを感じている人や地域が傍にあっても、それを教訓にすることもしないのでしょう。
 サラリーマンは、会社が火の車でも給料をもらっているうちは自営業者と違って殆ど危機感を持たないと云うか分からないでいます。もちろん役人も同じでしょう。こういう人たちが経営に携わることは危機意識の欠如により、おうおうにして会社や組織を危うくしてしまうのです。もちろん国においても同じことです。
 今の日本人が一番苦手としていることは被害者の気持ちを理解することです。いつか自分がその被害者になるかも知れないという危機意識が欠如しているのです。
 組織の中で居心地のいい者は、悪いのは一部の人で他は皆いい人だからという論理を唱えますが、それは明らかに間違っています。他の良い人が悪い人を排除しなくなったとき、良い人とは言えなくなるのです。自浄能力を失った組織は癌と同じで悪性化して社会に影響を及ぼしてしまうのです。
 大東亜戦争の痛みが余りに酷すぎたがために、そして戦後、米国が守ってくれたがために、我が国民は、昔、痛みを感じ危機意識を持って国を守ってきたことを忘れようとしています。竹島問題では、痛みを感じている一地方が立ち上がり決意を表明しました。しかし、国民が痛みを感じている人の危機意識を理解するのはいつのことになるでしょう。北朝鮮の拉致問題を6カ国協議の場に委ねているのを見てそう感じます。
by antsuan | 2005-03-19 07:42 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)