あんつぁんの風の吹くまま

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心に引き継ぐために

シベリアの名簿でまたまた思う国の無為無策
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 墓標。此れにはどれだけの意味があるのだろうか。お墓ブームは既に去ってしまい、今はお骨を持って返らず火葬場において行く人もいるそうだ。

 日曜日に、親しくしていただいた方が正月に亡くなった事を聞いて墓参りに行ってきた。簡素な墓だったが、そこには家の名前は小さくしか刻まれておらず、一文字の漢字が大きく刻まれているだけだった。わざわざ遠方から来たと云うので案内に来て下さった家族の方の話を聞くと、人生決して楽しい訳ではなく苦しい時の方が多い、死んでその苦しみから開放されたと思う方がいいのではないかと言うのだ。

 そう言う意味の一文字にはその家族の苦しみ悩みが隠されているのを静かに感じ取る事が出来た。またその方は、葬儀や偲ぶ会等は死んだ者にとってはなんの意味もない、生きている者の社交儀礼でしかないような気がして敢えて連絡しなかったのだが、このようにわざわざ墓にいらして下さる方がいらっしゃるのを知って親族として本当に嬉しく思うと、話して下さった。

 人は誰とも係わり無く生きて行く事は出来ない。誰かに世話になって生きていて、名前の知らない人であったりする。そしてその世話になった人を忘れる事が出来ないのは何故だろう。それは過去があってこそ未来が在る事の証ではないだろうか。世話になった人の生きていた証を確かめないで、何で自分の未来があるのだろう。

 多くの人が墓標も無く、草むし水漬き、空に散っている。その人々が我々の未来のために死んで行ったとしたら、その事を忘れてはならないような気がする。シベリア抑留の引き揚げ者の一人、国民的歌手三波春夫は秘めたる愛国者だった。しかしそれは墓標も無く死んで行った人々の守った国を守り続ける決意の現われだったのだ。

 間違いなく、今日の繁栄は名も無く死んで行った先達のお陰なのだ。その事を忘れてはならない。いかに靖国神社にお参りしようとも、シベリア抑留者の名前すら確認しようとしない連中は愛国者では無い。
by antsuan | 2005-05-16 07:25 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(0)
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