あんつぁんの風の吹くまま

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第三の「母のフットプリント」(その一)

 秋田に住んでいる叔母が、昔に私の母のことを書いたものが出てきてといって送ってくれました。母のことを知る貴重な資料になりました。私から見た母のことは、「第一歩のフットプリントは母のこと」(その一)(その二)に書いたことがありますので、今度は叔母から見た母のことを、第三の「母のフットプリント」として残しておきたいと思います。

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  小茜娘雑記(華やかなひと)-1

 その名のように華やかな女人であった。五人姉妹の二女と五女という間柄であったから、その姉とは六歳も年齢が離れていたけれど、中の一人が幼い頃に亡くなり、その上が叔母の養女になっていたから、学校も同じ・・・疎開したのも一緒・・・と姉妹としては一番接触が多くあった。色が白くて茶色の目をしていて姉妹中で一番大柄であったからハーフのように見られた程で、その頃、原節子等の所属していたP・C・L(東宝の前身)の社長さんの娘さんと同級生であったので、”女優さんになさいませんか”と母に話があったそうだけれど、その頃は女優になるのは普通の家庭では考えられない事であった。

 着飾ることが好きで、学校から帰るといろいろなファッションで身を飾り、メーキャップをして宝塚の人のように私達を楽しませてくれた。女学校を卒業して洋裁学校に入った姉は、私の洋服も作ってくれたし、食べることも好きな人であったから、お八つもお弁当も作ってくれた。疎開中は炭も焼いたし力仕事もしたし、本当にマメマメしい姉であった。深く物事を考えるということが苦手な人だったので、ただ華やかで楽しいことがあれば幸せそうな姉であった。絵を描くのが本当に上手で先生がその道を進めてくれたこともあったそうだが勉強が嫌いだから・・・といろいろな習い事だけをして青春を過ごしていた。

 華やかに音楽会に出かけたりスポーツをしていたわりにはおとなしく、一度のお見合いで結婚した。戦後二人の息子を育てている時も、夫が病院長になって何回も外国に行くようになっても、華やかで楽しいことだけに幸せを求めていたようでも、その中の心の中はいろいろな気苦労でいっぱいらしく、だんだんと食も細くなり痩せていった。自分で深く考えない人であったから父の存命中はその庇護を多く受け、その上の姉もまた父を頼っていたから、末っ子の私は両親には何事も心配をかけるのを止そうと心に思った。親というものは離れて見ていると幼い私にもなんと大変で切ないものだろう・・と思えたからである。

 その姉が、父が亡くなって十七回忌を迎えた時、脳腫瘍になり手術をすることになった。手術の前日に病院であったのがその華やかな姿の最後であった。全く別人の様相になり、病院での生活の方が長い年月を経て七年目を迎える。今は骨と皮だけのような姿になってしまい、やっと聞き取れる程の声しか出すことが出来ない。その時ははっきりと受け答えするが、自分で”頭を手術したからパーになってすぐ何でも忘れるの”という。涙を拭く指も曲がり、動かすことも出来ない顔の中で茶色の瞳だけがじっと見つめる。悲しみも切なさも、いとしさも痛々しさもも何も彼もがないまぜになって頬を付けると私の涙が溢れる。
by antsuan | 2005-12-26 18:15 | 身の回り・思い出 | Trackback | Comments(0)