あんつぁんの風の吹くまま

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「死」の定義と日本哲学


 読売新聞の「時代の証言者」は、日本経済新聞の「私の履歴書」みたいなものらしいのですが、「私の履歴書」は政治家や財界人の自慢話臭くなったところで購読をやめてしまったので今も続いているのか分かりません。しかし「時代の証言者」の方は政財界人よりももっと庶民的な立場の人の足跡が書かれていて、それも生きた時代が自分自身とそう違わないところも有って面白く読んでいます。今連載中の梅原猛氏の話も、まるで生き生きとした大学の講義のようで毎朝朝刊を読むのが待ち遠しく思うぐらいです。

 その梅原氏が脳死臨調の委員をやり、少数派として「脳死は人の死ではない」と強く訴えていたとは知りませんでした。確かに「死」の定義は哲学にとって根本的な問題であって、西洋の哲学と東洋それも日本の哲学とはこの「死」の概念が根本的に違っていると思います。それを論理的に主張出来る人を私は迂闊にも知りませんでした。しかもクローン動物を例にとり脳だけが生命を統合している訳ではなく、肉体の各部分に全体の生命が宿っているという生命科学の実態まで持ち出してのまさに科学的な哲学を展開するという明快な理論です。

 梅原氏は六十歳の時と七十二歳の時にガンを患い、それを克服して人生に後が無い人間として、「日本人の死生観にかかわる重要な問題」を臓器移植の科学的問題の中で見事に解決し、「脳死を死とするいかなる論理的根拠も見いだしえない」と結論を出しつつ、臓器提供は仏教でいう「菩薩行」と同じであると定義して脳死の臓器提供を提供者本人の意思確認を前提に認めた事は、名裁判官の判決文を聴くようです。

 「臓器移植をしたいがために死の概念を変えるという事は発想が逆転しています」と、梅原氏が述べているように、本末転倒はどの社会においても、まして政治の世界においては悪だと考えています。
by antsuan | 2005-11-23 23:43 | 文学・教育・科学・医療 | Comments(0)