あんつぁんの風の吹くまま

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銅鐸は稲作のための「暦」であり必需品だった

 今日は秋分の日です。暑さ寒さも彼岸までと云うように、冷たい北風が朝から吹いています。

 季節のことで思い出しましたが、縄文人は「環状列石(ストーン-サークル)」で暦を確認していたことは分かっています。では、稲作が始まった弥生時代はどのようにして暦を知っていたのでしょうか。

 その答えをYouTubeで発見しました。そうです。銅鐸が、日時計であり、暦(太陽暦)だったのです。そして多分、鏡は地球儀だったのでしょう。

 これらの道具を操り、太陽を神と崇め、祭祀を執り行なうことによって、稲作が安定して行なわれるようになり、どんどん広まって行ったに違いありません。つまり、弥生時代は銅鐸が使われていた時代ということが出来ます。

 そして、大陸から文字の伝来があり、文字により暦を記す民族が勢力をつけて日本を支配したときに、銅鐸の役目は終わりを告げ、製造されなくなったと考えられます。




 [ 分かち合うことが出来れば、悲しみは半分に、喜びは二倍になる ]
by antsuan | 2013-09-23 06:53 | 思想・瞑想・時代考証 | Comments(4)
Commented by sweetmitsuki at 2013-09-24 03:29
銅鐸が太陽を神と崇め、祭祀を執り行なう呪具だったという説には概ね賛成ですけど、日時計説はちょっとどうかと思います。
銅鐸は中国に起源があり、朝鮮半島経由で日本に伝えられましたが、その時点では内部に「舌」と呼ばれる棒のようなものがあって、鐘として用いられていたことは明らかです。
後期に作られた日本独特の巨大な銅鐸は、昼夜の温度変化の激しい秋と春には、水盆に半身を漬けておくと内外の気圧の変化によって、叩かなくとも自然に音が出て、それを神託と捉え五穀豊穣を占っていたのではないでしょうか。
Commented by antsuan at 2013-09-24 09:56
・銅鐸も銅鏡も起源は日本だとこの方は言っていますね。わたしもその意見に賛成です。少なくとも、南方の民族から伝わったと見るべきでしょう。

祭祀はもともと農業の仕事始めと仕事納めの行事であったと考えるのが自然です。稲作には、春分の日や秋分の日を知る必要があったはずです。銅鐸は、稲作をしている部落にとって必需品、つまり実用品だったから、狩猟民族に侵略されなかった、日本でたくさん見つかっているのではないでしょうか。
銅鐸を巨大にした理由は、目盛りを細かく正確にするためだったのではないかと思います。

そして、銅鏡は、地球儀というよりも、羅針盤として使われていたようです。恐らく、海路だけでなく陸路にも使われていたと思います。ですから、弥生時代にはすでに交易が盛んだったことは間違いないでしょう。

祭祀のための道具だったら、これらが使われなくなった理由が分かりません。また、古墳に埋められてしまうのも、おかしな事です。
Commented by sweetmitsuki at 2013-09-24 20:35
銅鐸の巨大化は西日本の文化なので私の得意分野外ですけども、東日本には、鈴鏡という、銅鐸と銅鏡を合体させた青銅器が発掘されてるのですよ。
東日本では、銅鐸と銅鏡を合体させる必要があったようですね、
Commented by antsuan at 2013-09-24 21:44
・ sweetmitsukiさん、鈴鏡は弥生時代ではなく、古墳時代に作られたようですね。その辺が謎解きのヒントになりそうです。
いずれにせよ、これらは文字の文化が入ってきた時に、使われなくなったものである事は、間違いなさそうです。
つまり、銅鐸や銅鏡は支那大陸からもたらされたものではないと言っていいと思います。
測量の道具だったかも知れません。想像ですが。