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信は時と場合によって凶器となる 親鸞の教えは「性悪説」の仏教だった?

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 恥ずかしいことに、日本の仏教の宗派については、六十才を過ぎたいまでも、ほとんどその違いがわかりません。

 わたしは、偶然に、静岡県の原に在る、白隠禅師がお生まれになったと云う松蔭寺に、若い頃一年間だけ下宿しておりました。

 また、我が家の墓を、広島県の生口島から鎌倉に移す際、宗派が違うことを知りましたが、そのことを、今の寿福寺の和尚さんは全く気にせずに、了解して下さいましたので、広島のお寺の宗派が何だったのかも忘れてしまいました。

 そのようなわけで、臨済宗については、禅を組み、自ら悟りを開くことを教えていると何となく理解しています。

 しかし、どのような仏教であっても、「生まれてきたときは無垢であり純粋である」と、教えているとばかり思っていましたが、どうやら、親鸞さんはそのように教えておらなかったようであります。

 人間の「善の中には必ず毒が混じっている」とおっしゃっている。これは、キリスト教的な「性悪説」に似ているような気がするのであります。

 そして、常に道徳心を失わずに「善行」に励めと説いておられるのです。ですが、「そうすれば救われる」とは、どうやら、おっしゃっていないようです。

 "救われると期待する"のは損得勘定であって「信にあらざる」のです。

 これって宗教ですか?

 難しい。

 しかしこの教えこそ、キリスト教原理主義に凝り固まっている、米国の人々に説いてほしい教えではないでしょうか。





  過ちを見てそれを正そうとしなければ過ちを犯した者と同罪だ
by antsuan | 2013-08-18 11:49 | 思想・瞑想・時代考証 | Trackback | Comments(4)
Commented by sweetmitsuki at 2013-08-19 18:46
二宮尊徳も「道徳なき経済は犯罪と同じ。」とはいいましたけれど、道徳的に正しい経済が成功するとはひと言もおっしゃらなかったような気がします。
Commented by antsuan at 2013-08-20 08:30
・ようするに、満足したい成功したいと云うことは、欲の為せる技ということですね。でも、それは善行の一つでもある。人間は完璧じゃないと云うことを悟るべしですね。
Commented by junko at 2013-08-20 18:39 x
Ciao antsuan
救われるために善行を施すのであれば、それは忌まわしむべきご利益信仰に陥ります
そうせざるをえない、魂のそこからわきいで、理由もなく身体がうごいてしまう、それこそ真の人間のとるべき善き行いであると、
仏教でも神道でも隠徳を積むことを説いています
Commented by antsuan at 2013-08-21 12:16
・junkoさん、日本に布教にやって来たキリスト教の宣教師は、利益信仰を説いたので、時の政権から排除されたようです。

>仏教でも神道でも隠徳を積むことを説いています
神学を持っていたマッカーサー元帥だからこそ、日本を統治出来たのだと思います。ただの米国の政治家や軍人だったら、日本はメキシコ化していたことでしょう。