あんつぁんの風の吹くまま

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運命は皮肉なもの

 平成の年になって、何一つ良いところがないと、嘆いている昭和生まれの日本人は数多くいると思います。確かにそれは当たっていることでしょう。しかし、それだけ昭和の年代に、我々日本人はたくさんの蓄えをこしらえていたということでもあります。

 昭和三十九年の東京オリンピックが、日本にとって、一つの転機になったことは誰しも認めることでしょう。その東京オリンピックのヨット会場及び選手の宿泊施設として、味の素の支援を受けて、葉山マリーナは建設されました。

 ですから、葉山マリーナは最初からホテル付きのマリーナであり、デンギーヤードが整った施設だったのです。当然のこととして、大企業の社会人のヨットクラブも、ここを拠点して活動していました。逆の見方をすれば、この葉山マリーナに、たとえディンギーであろうとも、ヨットを置くことは格式のあることだったのです。

 この近くに住んでいたわたしは、前にも書きましたが、父のロータリークラブの伝手で、上手くここ葉山マリーナにシードという横山晃さん設計のディンギーを置くことが出来ました。新規でそこにデンギーを置くことが出来たのは、後にわたしが大変お世話になる鴫原さんとわたしだけでした。

 そのうちに、葉山マリーナのディンギー仲間が集まり、葉山ブルーアンカーディンギークラブというものを発足させました。レースや納涼パーティーなどいろいろな企画を立てたものです。その時に支援をして下さった、秋葉原に会社を持つ、クルーザーの伊藤さんという方がマッキントッシュをわたしに奨めて下さったのです。

 葉山マリーナに行く時は、大抵はバイクを使っていました。スズキのオフロードタイプのハスラー二五〇です。わたしのハスラーはテールランプを改造してあって、ベンツのトラックに使っていた丸形の真ん中が黄色のウィンカーランプになっているものでした。ですからオフロードというよりもラフロード仕様にしてあったのです。

 ところが、その葉山マリーナのバイク置き場に、気になるバイクが時々置いてあることがありました。それはホンダのバイクで、恐らく日本製では初めての集合マフラーを取り付けたバイクでした。

 しかし、乗り手は誰だかずーっと分かりませんでした。一度だけ途中ですれ違ったことがあり、どうやら女性が乗っているらしいことだけは分かりました。

 そのバイクはシーズンオフの季節でもよく見かけることがありました。ヨットはクルーザーならば、釣りをしたり、冬でもそこそこ楽しめますが、ディンギーはよっぽど海が好きなものでない限り乗りに来ません。わたしは地元ですので、天気が良ければ冬でも乗りに行っていました。

 そういう時にディンギーヤードにいるのは、シーホースという木製のディンギーを整備している人たちです。シーホースはわたしの艇とおんなじ、横山晃さんの設計の艇なのです。

 この艇をこのように認識して大事に乗っていた人はどれぐらいいたことでしょう。そんなに多くはないと思います。もし、そのことをわかっていたら、ニス塗りやオーニングの掛け方から違ってくるからです。

 しかし、日本航空のヨット部はこの値段の高いシーホースを入れ替えたりして、ほかの企業のヨット部よりもきちっと整備していました。そして、意外と女性のクルーが多かったのです。

 当時のわたしは三十を過ぎていましたが、まだ独身でした。当然、はつらつとした日航のヨット部の女性に目が行きます。その中でも凛々しくキビキビしている女性が気になってきました。ところが、相手の方はこっちの前を通り過ぎても、全くの知らんぷり。声のかけようもないくらい、すーっと通り過ぎて行ってしまうのです。

 ま、しかたのないことです。こちらはレース派ではなく、普通のディンギー乗りと違って、釣りを楽しんだり、強風の時に出かけたり、頭の髪の毛もその頃から薄くなってきていましたから、変人に思われて当然なのです。

 しかも、その女性は日焼けしてとても健康的でした。出来ればレースの終わった後のパーティーの時にでも話をしたかったのですが、レースの時は、大抵こちらはマッキントッシュを使ってレースの順位を計算したり、その結果を印刷したりしていて忙しく、そんなチャンスはありませんでした。

 となると、ますますシーズンオフに顔を合わせた時がチャンスだったのですが、会う度に「高嶺の花だよなぁ、俺にとっては」と、「老人と海」の漁師が釣り上げたカジキマグロに話しかけるように、つぶやくだけでした。

 あぁ、その女性があの集合マフラーのホンダのバイクに乗っていたことがわかっていたら、絶対にバイクのところで待ち伏せして話しかけていただろうに。

 運命とは本当に皮肉なものです。





 [ 分かち合うことが出来れば、悲しみは半分に、喜びは二倍になる ]
by antsuan | 2012-06-15 12:51 | 自然・ブルーウォーター・競技 | Trackback | Comments(8)
Commented by sweetmitsuki at 2012-06-15 20:20
バブルの頃をちょっとだけ知ってる私としては、あの頃は確かにカネとモノが溢れてましたけど、ちっとも魅力的な時代じゃありませんでした。
私が昭和の人を羨ましいと思うのは、緑豊かな昭和天皇の誕生日に御所に自由に入れたこと。
今上陛下の誕生日は花の咲かない冬ですもの。
Commented by junko at 2012-06-16 14:04 x
Ciao antsuan
私も昭和生まれ
昭和に生まれて、いろんないいものを見ることができた
いい時代に生きることができて、幸せだったなあといつも思っています
平成ってさ、名前からして へたれだよね 笑



Commented by antsuan at 2012-06-16 15:54
・mitsukiさん、昭和の時代は活力そのものという感じでした。しかし、平成は安定の時代だと思うのです。もっと厳密にいえば「安定を知ってしまった」時代といえます。

多分、大正の時代もおんなじだったのではないでしょうか。日露戦争に勝って侵略される恐れの無い帝国主義国家を成し遂げた時代です。

今の日本は政治経済はめちゃめちゃですが、文化としては、情報化社会が花開いた最高に素晴らしい時代だと思います。それに世界中の民族国家が憧れているのだと確信しています。その結果が円高なのです。

日本は世界の最先端をゆく文化国家なのです。
Commented by antsuan at 2012-06-16 15:56
・junkoさん、昭和の心意気って、江戸っ子の気っ風の良さみたいなものがありますよね。人情が溢れていて気持ちが良かった。平成の人たちは、昭和の人々の人情に甘え過ぎているんじゃないかと思うんです。

江戸っ子の人たちの宵越しの金を持たない心意気っていうのは、一日いちにちを、清らかに生きていたから出来たことなんだろうと思うと、あぁ、俺はあの時、海に行ったのではなくて、海に逃げていたんだなぁと。

恋というものは切ないものです。(苦笑)
Commented by cocomerita at 2012-06-17 08:11
CIao antsuan
当時ね、日産が女性のクルーザーチームを作りたいと言ってて、日産の人にスカウトされ、クルーザーを何回か乗る機会がありましたが
私はね――クルーザー駄目だったわ
海面から遠すぎて、つまんないの
あの波しぶきを浴びながら、ってのが醍醐味だからね
シーホースはいいよねえ
あんなに美しい舟はないと思います うっとり

antsuanはそれなりに有名だったんだよ
知らぬは本人ばかりなり だね 笑

>恋というものは切ないものです。
まあ、まあ
お母様にそっくりの理想の女性と巡り合ったわけですから....
最終的には、それって御守護だったんじゃないの?? ははは
Commented by Emitan at 2012-06-17 10:39 x
奥様が見ても問題ない程遠い昔の話ですね。だから何なのよ?
声を掛けられなかったからこそ淡い思い出で済んだけど、声を掛けていたら・・・・・・・
Commented by antsuan at 2012-06-18 09:44
・ cocomeritaさん、ディンギーだからこそ、風と波に溶け込んで一体になれるんですよね。シーホース、本当にうっとりするような好い艇です。

えーっ??、それなりにって、どういうこと。今また有名になっちゃったけど。(^^;

ほんと、運命の女神は気まぐれです。(笑)
Commented by antsuan at 2012-06-18 09:45
・Emitanさん、そう、声をかけていたら・・。いや、やっぱり声をかけてみたかった。悔いが残りますねぇー。
梅酒がほろ苦い(苦笑)