あんつぁんの風の吹くまま

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春はやってくるものなのか

 ベルリンの壁が崩壊し、ソビエト連邦が消滅した今となっては東西冷戦時代の出来事は忘却の彼方に押しやられそうになっている。しかし日本国内の学生運動とともに、チェコスロバキアの民主化運動は、大国のエゴを世界の庶民がまざまざと見せつけられた事件として、忘れることが出来ない。
 今は分裂して二つの国家になっているチェコスロバキアにおいて、1968年、ドゥプチェク党第一書記が「人間の顔をした社会主義」をスローガンに民主化と自由化を推し進めていた。市民達は女子体操のチャスラフスカ(舌を噛みそう(^^;))選手も名を連ね支持を表明し、この運動は「プラハの春」と呼ばれた。
 しかし、8月下旬、ついにソ連軍を中心とするワルシャワ条約機構軍が侵入し、抵抗する市民が殺された。当然、ソ連軍は放送局や電話局を占拠し、市民の抵抗についての情報を世界に漏らさないようにしたが、そこで活躍したのが日本の商社である。
 現地の日本商社にはテレタイプライターなるものが置いてあったのである。この遠隔キーボードが電話の専用通信回線に繋がれていて、日本にある本社のタイプライターを打つ仕組みになっていたのだ。このテレタイプによって、プラハに入ってくるソ連軍の様子が本社へ刻々と伝えられてくる。ソ連軍は電話を封鎖してもその動きの一部始終が漏れてしまうことに慌てたが原因が分からなかった。
 此れは想像だが、日本の商社の通信専用回線は、西側ヨーロッパ経由ではなく、東側諸国経由の専用回線であったと思われる。従って24時間、商社マンが仕事をするふりをしてテレタイプを打ち続け、プラハの動きを世界に発信し続けたのである。情報を得る手段を断たれたアメリカや西側諸国の報道機関は、プラハの動きを東京発として打電し始めた。
 しかし、西側諸国はこの行為を避難はしたけれども、支援や軍事介入はしなかった。ついに、ドゥプチェク党第一書記はモスクワへ連れ去られ、改革中止を取り決める議定書に署名を余儀なくされたのである。プラハに春は来なかった。
 アメリカ情報局はこの事件をきっかけにインターネットの開発を進めることにしたと言われている。この商社のテレタイプはまさにIT革命の先駆けとなったのだ。
by antsuan | 2005-04-03 08:21 | 情報通信・パソコン | Trackback | Comments(0)