あんつぁんの風の吹くまま

ブログトップ | ログイン

人種差別のある平和を認めない

 古代ギリシャのアテネにも民主主義はあった。しかし、その市民という定義の人間とは、限られた人種でその中の限られた民族で、そのまた限られた階層の人をさしていた。ローマ帝国時代においても然り。しかし、時代とともにキリスト教文明の社会においては、市民とされる人々の範囲がだんだん広がり、二十世紀に入るとおおよそ白人だけはその範疇に入るまでにはなったが、その他の人種はまだまだ市民どころか、人間とも見做されない状態だった。さらにキリスト教文明社会以外では、昔ながらの王族か庶民に分けられ、庶民は人間扱いを受けていなかった。

 つまり、世界中に人種差別は残っていて、産業革命が広がり近代国家が形成され、民主主義を掲げたアメリカが独立し、そのアメリカの南北戦争が終わっても、そして第一次世界大戦が終わっても、民主主義は特権階級だけのものであり、古代ギリシャの時代と大して違いはなかったのである。

 そのような時代に人種差別をなくそうと提案した国がある。大日本帝国である。第一次世界大戦のパリ講和会議において、国際連盟の規約に「人種差別撤廃条項」を織り込むよう提案した。しかし、これは否決され、逆に米国では排日運動が勢いを増し、大正十三年(一九二四)に「絶対的排日移民法」を成立させた。米国は歴然とした人種差別国家だったのだ。

 何故、太平洋戦争に至ったか。何故、米国と戦う気になったか。もうお分かりだろう。

 人種差別のある社会を平和というのならば、戦争を否定する者は特権階級の人間である。人種差別のない社会を平和というならば、この世は平和ではない。
 
 戦争を美化するつもりはないが戦争を否定するつもりもない。なぜなら人種差別のある平和を認めないからだ。
by antsuan | 2005-06-23 23:11 | 思想・瞑想・時代考証 | Comments(0)